今週Twitterである方がクラシックのコンサートの感想をツイートされていました。私もクラシックが好きなので、その方と少しやりとりをさせていただきました。

クラシックは指揮者によって大きく演奏が変わります。作曲家がどのような意図でこの曲を作曲したのかに迫り、それを音にしていきます。私はその指揮者の演奏と説教者の説教に共通点を感じています。

いい説教とは何か。それは何度も聞いたはずなのに「今日初めてそれを聞いた」ような感動を与えるものではないか。そのように思わされています。

クリスチャン生活が長くなってくると「その話、もう知っているよ」というマンネリがどうしても起こってくるように思います。そして、読んでいても「きっとこういうことが大事なんでしょ」と先が見えてしまうこともあります。特にクリスチャンホームで育っているとそうではないかと思います。少なくとも私はそうでした。「もう聞いたよ」とよく思ったものです。だから例話くらいしか目新しいことがないということがありました。

しかし、神学校に行って「その話、こうでしょ」と思い込んでいたことが、かなり違っていたという経験をしました。それは、これまで聞いてきたのが間違っていたということではありません。けれど、周辺的なことを学ぶことで、違った響きがしてくるのです。その経験は、私自身がまるで「最初の読者」になったかのような感動を引き起こしてくれました。その「最初の読者」の感動こそ、聖霊が著者に与えられた息吹ではないかと思っています。説教準備はこの自分自身が「最初の読者」になって、聖霊を吹き込まれて、その感動を持って語ることだと思っています。

では、その「最初の読者」になるにはどうしたらいいのか。私が大事にしていることの中から3つのことを紹介したいと思います。

 

どんな文学的様式(修辞学)で書かれているのか

聖書の中には物語、法律集、歴史書、詩集、手紙などがあります。私たちは手紙を読むときは手紙の読み方をし、物語を読むときは物語として読みます。ですから、読まれる聖書のことばはどのジャンルのものかを見極めるところから始まります。

さらに手紙と言っても、現代の私たちと2000年前の手紙では書き方が違います。著者たちが当然のこととして学んだ教育である修辞学について知る必要があります。パウロ書簡は当時の修辞学の様式が見えてくると、どこにポイントがあるのかが見えてきます。それまで私はパウロ書簡が苦手で、どう読んだらいいのか分からず、ただいいなと思うところを拾っていたように思います。しかし、修辞学での分析をしながら読むと、それぞれのまとまりの中に機能的な役割があることが分かり、読むべきところが見えてきます。そのおかげで、ローマ書も大きな感動で読むことができました。

また物語と言っても、旧約と福音書では読み方が変わります。福音書もただの物語から、イエス様の言葉が中心となるアポフテグマなどジャンルが分かれています。そのジャンルが見えてくると、福音書も強調点が見えてきます。説教するときに、どこを響かせるべきかが見えます。

そして、ヘブル文学は構造にこだわりがあり、構造自体がどこを強調しているかを読むとる鍵にもなっています。ですから、パーツで読むのではなく文脈が重要になり、その様式をつかむ必要があるように感じます。もちろん、それは自分一人で分かるはずもないので、学者の分析を見比べて自分なりに考えてみます。安心していただきたのは、聖書の学者は山ほどいて、私が疑問に思うことはだいたい、考え尽くされているということです。今でも新しい知見も出てきますので、ありがたく学ばせてもらって、自分の考える材料にしたいと思っています。何も自分でゼロから考える必要はありません。

 

最初の読者は誰でどんな状況に置かれていたのか

次に読者はどのような人たちかを調べ、思い巡らします。というのも、手紙が顕著ですが、理由もなく手紙は書きません。問題があって、その対処のために手紙を書いているわけですから、その状況を調べ、どんな人たちがこの手紙を聞いたのかイメージを膨らませます。著者は具体的な「あの人」を思って書いています。それになるべく近づくようにしたいと思います。

不思議なのですが、2000年前の「あの人」を具体的にイメージすると、時代的な違いはあっても、共通するものが見えてくるのです。一例を挙げると、信仰歴が長くなってきて、だんだん疲れてきてしまっていたヘブル人への手紙の読者の姿は、そのまま現代の多くの教会に重なって見えてこないでしょうか。読者がわかると、グッと身近に感じられます。

それは福音書も同じです。なぜ、使徒たちはイエス様とのたくさんのエピソードや聞いてきた教えがある中で、これらのものを重要なこととしてまとめたのか。決して無作為ではありません。霊感を受けた著者たちとはいえ、まとめる段階では教会の会衆の顔を思い浮かべ、彼らに伝えたいイエス様の物語や教えをまとめています。例えば、マルコは福音書の中で、読者がアラム語やヘブル文化を知らないことがわかっているので翻訳や説明を入れます。マタイは自分の読者はそれを知っているとわかっているので省きます。

私は福音書の最初の読者を思い浮かべると、そこに二代目クリスチャンたちの顔がたくさん見えてくる思いがします。親世代はイエス様や使徒たちから直接話を聞くことができた。けれど、自分たちは間接的にしか知らない。そのような読者がイエス様と出会えるように福音書は書かれています。そう思うと、福音書がグッと自分に近づいてくるのを感じました。これは私のために書かれたのだと迫ってくるのです。

 

歴史の中でどのようにこの御言葉は響いてきたのか

私はもう一つ説教をするときに思い巡らすのは、この御言葉は歴史の中でどう響いてきたのだろうかということです。旧約聖書であれば、創世記の物語をバビロン捕囚の時代の人々はどう聞いたのか、新約の教会はどう聞いたのか。同じ聖書のことばを聞いても、時代によって響き方は違ったことと思います。福音書も古代教会と中世、宗教改革期、第二大戦中、平和な時代でも違うでしょう。

なぜ、そのような歴史の中でどう響いたのかを思い巡らすのかというと、私自身がずっと聖書を読んでいるとき2000年前の聖書の時代と、今の自分との間に断絶を感じていたからです。いや、むしろ聖書が無時間的なもののように感じていました。だから、何か御言葉が自分のうちに根付きにくいものを感じていました。

しかし、教会の歴史を学ぶと、この2000年の間にも、神のことばは生きて働き、人々を悔い改めに導き、苦難の中に慰めと励ましをもたらしてきました。神のことばは生き続けている。それが分かるだけで、自分が歴史に根ざし、その中に脈々と受け継がれてきた信仰の流れの中にいることを実感できるのです。御言葉はリアルな世界に生きるリアルな人々の中で、生きて働いてきたのです。歴史を貫く真理のうちに自分を置けることは大きな幸いです。

不思議なもので、クラシックの演奏でも、ヒストリカルな演奏には独特の感動を覚えます。例えばベートーヴェンの交響曲の演奏など、今はピリオドスタイルというなるべく作曲された時代の演奏に近いものを目指すのが一般的になってきましたが、それでもフルトヴェンクラーの演奏など、およそオリジナルからは遠いように感じる演奏でも、やはり心を打つものがあります。時代の制約があっても、真摯に楽譜に向き合った結果、人々の心をうつ演奏となっているように思います。演奏の変遷の中に、むしろ生きている人を感じます。

同じように、最初に語られたみことばのの響きを目指してはいても、ヒストリカルな説教にもやはり価値を覚えます。今からすると聖書解釈がどうかと思う点はあっても、それでも御言葉が生きて働いているのを感じます。聖霊は私たち人間の思いを遥かに超えて、生きて働いておられます。だから、歴史の教会で響いたみことばの声からも教えられたいと思うのです。そこにもまさに泉があふれています。

 

〜みことばの感動が独りよがりにならないために…〜

最後にそれでも一番大事なこととして、今目の前に会衆に寄り添うということです。この最初の響きへの追及も、目の前の会衆への理解がなければ独りよがりの研究発表のようなものになってしまうでしょう。そうではなく、そこには生きていて、様々な状況に置かれている教会のお一人お一人がいる。その方達を決して忘れてはいけない。そう思われています。

最近、ある先生から「説教こそ信徒に寄り添う時だ」と教わりました。お一人お一人のことをとことん思いめぐらして、その人たちに語るのだと。

パウロ書簡はまさにそうだと感じます。パウロは教会のためにとことん祈り、考え、それで手紙を書いている。叱っているところもあるけれど、それは徹底的に寄り添っているからこそ出てくることばだと感じます。

説教者が会衆に寄り添い、なおかつ最初の響きの新鮮さを共有できる、そんな説教を心がけたいと思わされています。まだまだ成熟には程遠くても、祈りつつそこを目指したいと思わされます。