こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。4月から教会のブログを開始しました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

さて、毎週土曜日は「1週間のふりかえり」という回にしていこうと思っています。1日、1日を忙しく生活していると、何かいつもやるべきことに追われて生きているような気がしないでしょうか。しかし、その1日、1日の中には、大事なことがたくさん詰め込まれていたことでしょう。

 

母の日に始まった1週間

今週の日曜日は母の日でしたね。Twitterを見ていると、たくさんの方々が普段表せない感謝をお母様たちに伝えている姿が見れました。母の日のお祝いは人それぞれですが、たくさんの感謝が溢れている姿は胸を打ちます。

例年であれば、「いい日だな〜」で終わるのですが、私は今年は例年と違いました。なぜなら、私は諸事情があって、今年は母の日をしなかったからです。Twitterに以下のツイートをしました。

母の日に限らず、父の日もそうでしょう。敬老の日、子どもの日、家族にまつわるお祝いの日を素直に喜べない人がいる。むしろ痛みを持ってその日を迎えている人がいる。頭では分かっていたつもりですが、実際に自分がそのような立場になって、そのことを痛感しました。

みんなが普通に喜んでいる日に、喜べないということは、何か取り残されたような気がします。自分だけおかしいのではないかと思ってしまうかもしれません。「いろいろな事情があるのだから、そんなことを思う必要はない」と、当然頭ではわかります。しかし、頭と心はすぐにつながってくれはしません。というよりも、そんなことをしてしまうと、心が置いてきぼりになってしまう気がします。

痛みがある時は、十分に痛みを感じていいのだと思います。その痛みは人によって、小さかったり、大きかったりするでしょうが、「あの人の痛みに比べれば自分のなんて…」と比較などせずに、「痛いものは痛い」と言えばいいのだと思います。

このツイートに「いいね」がたくさんつきました。私はそれを見た時に、みんなではないかもしれないけれど、同じようにTwitterをやっている人の中に、母の日を痛みを持って迎えている人がいるのだと思わされました。それぞれ痛み方は違うと思います。ただ、「私も痛みを覚える」という人が一緒にいてくれること、それだけでも慰められ、励まされるものがあります。

 

家族の痛みがある現実

クリスチャンに限らず、多くの人が「良い家庭をつくりたい」と願います。しかし、いくら願ってもそのような家族を得られないということはあります。それは、本人の努力に関わるものではありません。

当然親は選べないし、配偶者だって結婚するまで知らなかった姿などがあって、苦しむことがあります。生まれてきた子どもを愛せなかったということだってあると思います。また、夫婦や親子は愛し合っていたのに周囲の親族による被害で、壊れてしまうこともあるでしょう。

当たり前の普通の家族を望んでいても自分の努力の外で、それを得られないということは起こります。「誰々のせい」といったところで、壊れたものは戻ってきません。

ひょっとしたら、今は壊れてないように見えても、実は内側は誰かが苦しんでいるということもあるのではと思います。「私一人が我慢していれば壊れないで済む…」といって、憎しみや恨みを抱えながら耐えている人がいるかもしれません。私は自分がずっとそうであったと思っています。しかし、やはりそれは間違っている。誰かが苦しんだままでいていい家族なんてないはずです。だからこそ、次のようなツイートをしました。

詳しくは言えませんが私自身、「自分が我慢して壊れないようにしよう」として数年間不条理な状況に置かれていました。しかし、私一人が我慢しなければ壊れてしまうようなものだったら、とっとと壊れてしまえばいいのだと思えるようになりました。ある程度家族として支え合い、我慢することも必要でしょう。しかし、奴隷のように扱われていい人なんて誰もいません。

そして、それは聖書を読んでいてまさにそう思うのです。

 

壊れて痛みのある「アブラハムの子」を用いる神様

私は大学生時代クリスチャンとして影響を受けたたくさんの人たちがいます。素晴らしい家庭を築いている方達にたくさん出会いました。それは素晴らしいもので、今の自分の家庭のモデルになっています。

しかし、聖書や教会の主要テーマが「良い家庭づくり」かと言われると疑問があります。聖書的な家庭、聖書的な母親、聖書的な父親、聖書的な子ども…。確かに聖書を繋ぎ合わせたり、テーマを拾ってくれば、そういうことを語ることはできるでしょう。学ぶ価値もあると思います。

けれど、聖書を読んでいると、特に創世記を読んでいると、そうは思えないのです。アダムとエバ夫婦の責任転嫁合戦、カインによる弟アベル殺害、ノアの家庭内での呪い。そしてアブラハムをはじめとする族長たちも酷かった。アブラハムとサラ夫婦にハガルが入ったことで起こった混乱、イサクとリベカのそれぞれの息子たちへの肩入れによる崩壊、親族に騙され続けるヤコブ、そしてそのヤコブがヨセフを偏愛したことで起こる摩擦からのエジプトへの売り飛ばし…。創世記の家庭にはどこにも痛みがあります。新約聖書にはそもそもモデルとなるような家庭は描かれていません。強いて言えばイエス様の家庭だけれども、特別幸せ家庭かと言われれば、やはりここも疑問があります。

家庭を家庭として描いているのは創世記くらいではないかと思います。明かに創世記は家庭がテーマになっています。しかし、それは壊れた家庭としてのように思われます。

不思議なんです。神様は、なぜアブラハムに対して、「地上の全ての民族はあなたによって祝福される」と約束されたのだろうかと。とても、人を祝福できるような人にも家庭にも思えない。けれど、神様はこの壊れた家庭である「アブラハムの子」たちによって、世界を呪いから祝福に変えようとされている。そこが不思議でならないのです。

信仰によってイエス様を信じたことでクリスチャンもまた「アブラハムの子」とされています。ある意味で、私たちも「アブラハムの子」の世界に生きているように思います。やはり、「アブラハムの子ら」と同じく、家庭に痛みがあり、親族に悩まされ、苦しんでいる。けれど、その壊れた家庭のものたちを神様が用いてくださる。世界を祝福するためにこの欠けのあるアブラハムの子らを用いてくださる。そこに神様の圧倒的な凄さを覚えるのです。

 

壊れて痛みのあるものたちを見捨てない神様

この壊れゆくアブラハムの子らを神様は見捨てません。アブラハム夫妻に追い出されたハガルとイシュマエルを神様は憐れみ守ってくださった。兄弟殺しに発展しそうだったヤコブとエサウには思いがけない和解の道が与えられた。ヨセフと兄弟たちも諍いの果てに、イスラエルを救う神様の計画があったことを覚えます。神様はこの壊れてしまったように見える家庭を見捨ててはおられない。アブラハムに与えられた約束を握っていてくださる。

時に、私たちは「壊れたまま」に見える現実にも直面します。カインに殺されたアベルが帰ってこないような現実です。「壊れて終わりだったじゃないか」そう思える現実もまたあります。けれど、そのアベルの血の叫びを神様は受け止めていてくださる。

ヘブル人への手紙11章

4,信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

アベルの信仰とはなんだろうかと考えます。ただ普通に神様を礼拝して、心からの献げものをしたら殺された。あまりにも不条理です。アベルという名前は「空虚、虚しい」という意味があります。まさにアベルの生涯は側から見れば不条理な虚しいものかもしれません。

けれど、神様はこの不条理にあるアベルを受け止めていてくださる。アベルの怒り、恨み、憎しみを受けとめてくださる主がおられる。決してアベルは見捨てられてはいない。アベルの想いは受け止められている。

創世記4章

10,そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

11,今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

12,それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

壊れたものを回復させることができる神様は、時に壊れたままにされる時もある。けれど、その虚しさ、苦しみは決して見過ごされてはいない。一緒になって、怒り、痛みに寄り添ってくださる。

だから、私は神様を信じます。どのような結果が待っていたとしても、神様を信じます。決して「同じように思え」と、人に強要するつもりはありません。「神など信じて何になる?」と叫ぶ時だってあったっていいと思います。私もそういうところを通りました。

それでも、私は神様を信じます。壊れた家庭に関わり、回復を与えてくださる主を信じます。私は無力です。しかし、私が無力の時にこそ、神様の出番だと信じています

痛みのある方々に、主の慰めと癒しがありますように。