皆さん、こんにちは。今週もここまでお疲れ様でした。週の最後の土曜日、良い1日をお過ごしください。

さて、今はオンラインの時代ですね。世界中と繋がって一緒に交わりを持つことができる素晴らしい時代になりました。教会もオンラインを活用することによって、自分の地域とは別のとこから繋がられる方も出ていると聞きます。

すると、一つ悩むことがあります。「この時代に地域に置かれている教会の意味とは何なのだろうか」ということです。地域という縛りを超えることができる時代にあって、「清瀬」バプテスト教会という土地の名前を冠することにどんな意味があるのだろうかということです。

すでに完全オンラインの教会も出始めています。私はこのような動きは当然起こってくるものと思っています。一つの形態としても歓迎しています。ひょっとしたら病気や何らかの事情で外に出られない、リアルな人との交わりには加われないという人がいるかもしれません。そのような方にとっては、完全オンラインの教会は良い知らせだと思います。

だからこそ、このような時代に「地域の名前を冠する」ことの意味を考えたいと思います。

 

ここに置かれたからここの隣人を愛する

私は単純に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉に戻ります。私にとって、清瀬は自分の大事なところですし、私が具体的に関わる「隣人」がたくさんいます。単純に「ここに置かれた」から、「ここの隣人を愛する」ということが原点です。

人によっては、遠くにいる人も隣人ではないか、どこにでも隣人はいると言われるかと思います。その通りです。イエス様の願いは全ての人が隣人であるように私たちに語りかけられていると思います。

しかし、「近い人ほど愛しにくい」ということも事実ではないかと思います。ドフトエフスキーの小説の中で、ある女性が「私は世界中の人々を愛しています。苦しんでいる人を愛しています。けれど、この男だけは許せない!」という趣旨のことを言っていたのを思い出します。近くにいる人ほど嫌なところが見えて、愛しにくいところがあります。聖書におけるユダヤ人とサマリヤ人の関係を思います。

使徒の働き1章

8,しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この使徒の働き冒頭におけるイエス様の語られた宣教地域の中にサマリヤがあることの意味を覚えます。

サマリヤ人はユダヤ人のまさに隣人でした。しかし、歴史的な経緯から嫌悪する関係になっていました。礼拝の仕方も、律法の受けとめ方も違う。私たち日本人からすると、大きな違いには見えないのですが、同族嫌悪の状態になっていました。

そのサマリヤに福音を伝えて、そのさきに地の果てへの宣教があります。サマリヤを飛び越えて地の果て伝道ではありませんでした。サマリヤに伝えてからの世界です。

私たちが具体的に住んでいる「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ」があるように思います。エルサレム=一番近い人、ユダヤ=友人や隣人たち、サマリヤ=近いけれど交わりのない隣人。

地域教会の役割は、この「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ」へ具体的に働きかけ、さらに「地の果て」への宣教も視野に入れて祈り関わるものだと思います。神様が私たちを「清瀬」に置かれた。だから、この近くの人々からまず始めよう。けれど、その先の「地の果て(オンライン)」も見据えよう。そういうことではないかと思います。

 

近い人を愛せる人が遠い人を愛せるようになる

私の娘が今年、小学校3年生になり社会の学習が始まりました。社会の学習は3年生で住んでいる市区町村、4年生で住んでいる都道府県、5年生で日本全国を扱い、6年生で歴史・公民分野を扱います。ここには発達段階に合わせた広がりがあります。願う姿は、「清瀬が好き→東京都が好き→日本が好き」となることです。もちろん、その「好き」には良いところも、課題も知った上での「好き」です。

同じようにクリスチャンも、近くの人から関心を持ち始め、だんだん遠くの人へと関心を持つようになるのが自然だと感じます。近い家族への関心、教会にいる兄弟姉妹、置かれている地域、それから他地域、他国へと向かうのが自然なのではないでしょうか。

もちろん、いきなり歴史から好きになる子がいるように、世界のことに関心が最初から向く人もいるでしょう。けれど、やはり足元を大事にしたい。一番近くの人を愛せるようになること、それから次第に離れた人を愛せるようになるのではないかと思います。誰かと良い関係が築けた人は、他の人とも良い関係を築きたくなります。広がっていきます。

先週、娘と一緒に調べ学習で清瀬のにんじんの生産者さんに会いに行きました。とても素晴らしい思いとまた専門性で農業に携わられていました。お話を聞き、関われたことでにんじんへの関心が高まりました。清瀬の良さをさらに知りました。

主がこの地に置いてくださっている。だから、まずこの地から愛することを始めよう。地域教会の使命は、この地を愛することだと思います。この地域への愛が溢れるときに、ますますこの地域でイエス様を伝えていきたい、関わっていきたいと願うようになると信じます。

地元を本当に愛せるようになると、他地域を尊重することができます。一番近い隣人を愛する教会でありたいと願います。