「神の怒り」としてのバビロン捕囚
詩篇74篇
アサフのマスキール
1,神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。
2,どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。
3,永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。
旧約聖書でイスラエルにとって大きな出来事いえば出エジプトでした。神様が私たちを救ってくださったといういつまでも記憶しておきたい出来事です。しかし、もう一つ悲劇だけれども記憶されるべき大きな出来事がありました。それがバビロン捕囚です。
バビロン帝国によって南ユダ王国は滅ぼされました。それは、ただの戦争に負けたということではなく、「神の御怒り」と表現されているように、「神様からの裁き」と理解されました。
神の民であるしるしを全て失って…
9,もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。
イスラエルには、自分たちが神の民であると信じる「しるし」が3つあったと言われています。「ダビデの子孫による王」「神殿を含むエルサレム」「約束の土地」です。バビロン捕囚はこの3つ全てを失ってしまった出来事でした。神の代理者である王がいない、神の臨在の象徴である神殿は破壊された、そして異国にとらえ移される。神の言葉を語る預言者もいなくなってしまい、いよいよ見捨てられてしまったと感じる状況でした。目に見えて信じられるものが全部なくなってしまったのです。
全部を失ってなお見えてきた神の姿
12,確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行われる方です。
…
16,昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。
17,あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られました。
「神様がおられる」というしるしを全て失ってしまった詩人でしたが、それでもなお彼は「神は、昔から私の王」と告白します。そこで彼が見たのは、月と太陽という頭上に広がる世界でした。そして、夏と冬という変化し生きている自然世界でした。
目を開いて見えてきたのは、被造世界でした。どんな異国の地であっても、そこを造られたのもまた創造主なる神様である。イスラエルで見た太陽と月はなおもこの地でも照り輝いている。
神様はいなくなったのではない。なお、世界を見渡すとき、そこに神様がおられることを発見したのです。
図々しいくらい大胆な信仰によって叫ぶ
20,どうか、契約に目を留めてください。地の暗い所には暴虐が横行していますから。
21,しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。
詩人はこの世界を造られた神様を見出して、ただ安心したというのではありません。前半と同じように叫び続けます。むしろ、創造主なる神様は、私たちと契約を結ばれた神様であるという信仰から、迫っていきます。
「契約に目を留めてください」、そう迫ります。確かにバビロン捕囚は民の罪の結果かもしれない。けれども、それで契約が破棄されたわけではないはず!ご自分の民を顧みるのが契約の主の責任だと言わんばかりです。
信仰者は罪を指摘されたら、シュンとしてうなだれているのが模範的な姿と思っていないでしょうか。そういう時もあるでしょうが、この詩人のように「神様、あなた約束したじゃない!」と迫っていくこともまた信仰の一つの姿です。
たとえ罪や弱さがあったとしても、神様に思っていることをぶつける図々しさがあっていいのです。神様が願っておられるのは、いかなる形であれ、交わりがあることです。子供が親にぶつかっていくように、私たちは神様にぶつかっていい。祈り叫びましょう。