こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。GWも終わりましたね。木曜、金曜を越えればまた土日ですので、リハビリだと思ってゆっくりやれるといいですね。休み明けですから、100%出そうとせずにぼつぼつやりましょう!

毎週木曜日は「ヘブル書からのショートメッセージ」を書こうと思っています。教会で毎週行っている水曜日と木曜日の集会でこのヘブル書を続けて読んでいますので、そのエッセンスがお伝えできればと思っています。今週はヘブル11:1〜7を読みました。ヘブル11章は信仰偉人伝のように、たくさんの旧約の信仰者たちの姿が「信仰によって」という言葉と共に紹介されていきます。

その中心はアブラハムとモーセになりますが、アブラハム以前にも触れられ「アベル、エノク、ノア」が信仰の人として語られます。ノアは「滅びるから箱舟造れ!」というのを信じたということでわかりますが、アベルとエノクはどうでしょうか。

アベル、エノクと聞くとどんなことを思い浮かべるでしょうか。アベルといえば、お兄ちゃん殺された人類最初の殺人事件の被害者です。エノクといえば、突然神様に取り去られたという神隠しにあった人という感じです。一体、彼らの何が大事な信仰の人として語られているのでしょうか。

 

名もなき殉教者の父としてのアベル

アベルについては次のように語られています。

ヘブル人への手紙11章

4,信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげたとありますが、これはどういうことでしょうか。創世記には次のようにあります。

創世記4章

3,ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、

4,アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

ここは決して神様は「作物よりも羊が好き」ということではありません。何よりも羊を献げるというのはユダヤ人からすればごくごく普通の信仰の姿勢です。

ヘブル書は「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っている」と言います。ここがヒントになります。死んでアベルが語っているにあたる創世記の記述は次のところです。

 

10,そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

 

アベルは普通の信仰生活を送り、不条理な殺された方をしました。それゆえに、死してなお叫んでいるというのです。これは、殉教者の叫びです。当たり前の信仰生活を送っていたのに、不当にも殺されたそのアベルの苦しみを神様が受け止めてくださっていた。神様はアベルのような普通の信仰者たちの苦難を受け止めてくださっている。それこそが、アベルが死してなお私たちに語っていることではないでしょうか。

ヘブル書の読者の時代には、まさに無数のアベルがいたのです。イエス様が救い主だということを喜んで信じていた。しかし、ただそれゆえに迫害され殺されるということが数々起こっていました。そのほとんどの人が無名の人たちです。特別な偉大な信仰を持っていたから殺されたわけではありません。ただ、普通の信仰生活を送っていただけの人がほとんどです。

 

ただ神様に喜ばれていただけのエノク

エノクもまた不思議な人です。ヘブル書では次のように書かれています。

5,信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

エノクの何が神様を喜ばせたのでしょうか。創世記を見ていてもはっきりと「〜をした」とはありません。

 

創世記5章

22,エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。

23,エノクの一生は三百六十五年であった。

24,エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

 

これだけです。一体、彼の何が素晴らしかったのかわかりません。想像力を逞しくして、「きっと、すごい信仰だったに違いない」と考えてしまいそうですが、ヘブル書では次のように語られています。

 

6,信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

ヘブル書はエノクの信仰と関連する形でこの6節を語ります。その神様に喜ばれる信仰とは、「神がおられること」「(神様は)神を求めるものには報いてくださる方であること」これを信じるだけだというのです。つまり、「今も神様はおられる」「終わりの時には神の子に素晴らしいものを与えてくださる」これを信じるだけです。それだけです。

つまり、エノクの信仰もまたすごい特別なものだったわけではない。当たり前の信仰だと語るのです。当たり前の信仰を持っていたエノクが、ある時取り去られたように、私たちもまた素朴な信仰生活を送っていればいい。それが神様を喜ばせることになるのだと語っているのです。

 

ごく普通の信仰生活でいい

神様は無数のアベルたちの叫びを、無数のエノクたちの姿を、聞いて見ていてくださっている。アベルとエノクが特別な信仰でなかったように、神様に喜ばれる信仰というのは、ごくごく当たり前の信仰です。

「神様がおられる」「神様は良いものを必ず与えてくださる」そのシンプルな信仰です。それが時に見えない時にもそれを信じる。苦難の中でもそれを信じることをやめない。それが私たちのできる最上の献げものです。神様は、そのごく普通の信仰を喜び、どんな時にもその声を聞いてくださる。それこそが福音です。