こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。今日は清瀬は雨です。暑さが一転、涼しい朝になっています。衣替えはまだできませんね。
毎週木曜日は「ヘブル書からのショートメッセージ」をまとめています。教会で毎週水曜日と木曜日の集会でヘブル書を続けて読んでいて、そのエッセンスをお伝えできればと思っています。
今週はヘブル11:23〜31を読みました。ヘブル11章は信仰偉人伝のように、たくさんの旧約の信仰者たちの姿が「信仰によって」という言葉と共に紹介されていますが、今日のところはモーセから出エジプト、そして約束の地へ向かう時代が取り上げられています。
ヘブル書11章を読むときに注意したいこと
一つ注意したいことがあります。11章の信仰列伝全体に言えることですが、ここの人物伝はヘブル書の説教者(著者)が会衆(読者)の信仰の励ましとして書いているということです。つまり、ここにはヘブル書の説教者が励ましとして伝えたいモーセの一側面が書かれているのであって、モーセの実像を描き出そうとしているわけではないということです。
つまり、「ヘブル書にこう書いているからモーセはこういう人物だったんだ」と言って、出エジプト記を読むときに投影しようとすると、混乱してしまいおかしなことが起こってきます。ですので、ここは説教者は「モーセを出汁にして何かを伝えようとしている」と思って読むことが肝心です。
その上で、ここを読むと伝えたいことがはっきりしてきます。それはヘブル書の説教者は「モーセを出汁にして、キリストを語ろうとしている」のです。
神の民とともに苦しむことを選んだモーセ
ヘブル人への手紙11章
24,信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
25,はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
26,彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
モーセの中には逆キリストとキリストそのものを見ることができると言われています。つまり…
モーセ:奴隷の子→(一時的に)王の子→同胞の中へ
キリスト:神の子→(一時的に)人間の中へ→天の神の右の座へ
モーセが下→上→下に対して、キリストは上→下→上という向きをしています。モーセには逆キリストのコースが見えてきます。
そして、その中に大事なのがキリストと同じ「上から下へ」という下降が見えることです。
25,はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
モーセは、神の民と共に苦しむことを選んだとあります。そして、そこにこそキリストの姿があります。キリストもまた私たちと共に苦しむことを選んでくださった。ヘブル書は「苦しみを通して完成する救い主」ということを一つのテーマにしています。
苦しみによって完成するキリストと重ねられるモーセ
ヘブル人への手紙2章
10,神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
この2:10はやや込み入っていますが、まとめると「父なる神様はイエス様を苦しみを通して救い主とした」ということです。苦しみこそが、イエス様が救い主であることに大事な要素だったというのです。
ヘブル書の説教者はモーセの中に、この苦しみを選び取るキリストを見ています。そして、「神の民と共に苦しむ」モーセに注目を向けさせます。
そのモーセに注目し、会衆にも「神の民と共に苦しむ」ことを語っているのです。
苦しむことは嬉しいことではありません。しかし、聖書はその苦しみの只中にキリストが来てくださったことを語ります。そして、その苦しみの只中に来てくださったゆえに私たちの弱さに共感し受け入れてくださるのです。
苦しむキリストが理解して受けとめてくださるからこそ
ヘブル人への手紙2章
17,そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
18,主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
イエス様は苦しまれたからこそ、私たちの苦しみを受けとめてくださいます。ここに私たちは慰めがあります。私たちの信じ頼るお方は、苦しみを知っていてくださる。そして、その苦しみに寄り添ってくださる。そこに安らぎがあります。
しかし、イエス様が苦しんでくださった、だからもう苦しまなくていい、ではありません。イエス様が十字架の苦しみの先に復活されたことを信じて、私たちもキリストに倣うのです。
ヘブル書の説教者はモーセの中にキリストを見ています。そして、読者である会衆に語っている。「一緒に苦しもう」と。
ヘブル書の読者は揺れていました。長く続く迫害に疲れ、ユダヤ教からの「戻っておいで」という声もあり、教会を離れてしまう人たちが出ていました。
だからこそ、信仰列伝を語る中で、説教者は伝えたいのです。キリストに倣って、モーセに倣って一緒に苦しもうと。
苦しみはただの難行苦行ではありません。モーセもまた苦しみの先の報いを信じていたとヘブル書は目を向けさせます。
苦しみの先にある報いを信じて…
26,彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
報いがあるのです。イエス様が十字架の先に復活し、天の神の右の座に引き上げられたように、私たちにも報いがある。神様は今も共にいてくださるばかりではなく、さらに未来にも報いを約束してくださっている。だからこそ、この苦しみを共にするのです。
そして、イエス様の苦しみが決して永遠ではなかったように、私たちの地上での苦しみもまた永遠ではありません。必ず終わりがきます。だからこそ、終わりがあることを信じて、苦しみを共にすることを励まします。
今の私たちも同じではないでしょうか。このコロナ禍のみならず、教会が時に苦しみの最中に置かれることはあります。教会が時に衰退していっているように思える状況があります。その時に、衰退しているから元気な方に移るというのではありません。その苦難の只中を共にするのです。神様の復活を信じて、苦しみを共にする。
キリストに倣う、それはどういうことか。モーセにキリストを見るように、私たちの生活の中にキリストを見たい。そしてそのキリストに習いたいと願わされます。