こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。今朝の清瀬は比較的涼しく、せっかく衣替えしたのにちょっと肌寒く感じます。今の時期は着る物に困りますね。
毎週木曜日は「ヘブル書からのショートメッセージ」をまとめています。教会で毎週水曜日と木曜日の集会でヘブル書を続けて読んでいて、そのエッセンスをお伝えできればと思っています。
今週はヘブル11:32〜40を読みました。その中でも特に35〜38節に注目して見てみましょう。
ヘブル人への手紙11章
35,…またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。
36,また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、
37,また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、
38,--この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした--荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。
あの人たちはふさわしく扱われていなかった、そしてあたなも…
旧約の信仰者の中には、読むだけでも辛くなってくるような厳しい迫害にあった人たちが出てきます。しかし、その結論のように語られる言葉が目を引きます。それが「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした」です。
この言葉には不思議な人を癒す言葉があるように感じます。というのも、迫害にあい、苦しんだのは、彼らが間違っていたからではありません。「ふさわしくない」という言葉からは、「もっとふさわしく扱われるべき存在である」ということが透けて見えます。
確かにそうなのです。神様を信じて歩んでいて、あざけられ、苦しみにあい、悩まされる。それは彼らがおかしなことを信じていたというわけではない。むしろ、本来なら神を信じて歩んでいるものとして、ふさわしくその言葉に耳が傾けられ、尊重されるべきでした。特に預言者たちに関して言えばそうでした。しかし、そうなってない。それは預言者がおかしいのではなく、この世がふさわしく扱っていないのです。
神の子としてふさわしく扱われない世界に生きる
ヘブル書の読者であるクリスチャンたちもこの言葉に慰められたのではないかと思うのです。苦難で苦しむ先人の信仰者の姿に、今の時代に苦しむ自分たちが重なります。イエス様を救い主として信じるだけで、ひどい扱いをうける。仲間から外される。そのような環境に置かれている読者が「あなたが間違っているからではない。そうではなく、この世があなたにふさわしくないのだ。」そう言ってくれているように感じるのです。
そう、本来イエス様を信じた私たちは「神の子」とされました。奴隷の家に生まれようと、どんな民族に生まれようと、イエス様を信じて「神の子」とされたのです。けれど、地上ではそのように扱われない。それは、私たちがおかしいのではなく、この地上がおかしい、そう言ってもらえると慰められるのです。
それは負け惜しみではありません。確かにイエス様は私たちを神の子としてくださった。そして、いずれイエス様を信じるものたちは神の子として天に迎え入れられ、新しい地を収めるようになる。
夢物語に聞こえるでしょうか。しかし、まさに旧約の信仰者たちもそう生きたのです。この世界の人がどんなに自分のことをひどく扱おうが、私の本来的な存在価値は神様が約束してくださったところにある。それが信仰です。そして、それは現実を超えて、現実を生きる力を与えてくれます。
あなたは神様に造られ、神様に知られている尊い存在である。そのように扱われていないとしてら、それはあなたが悪いのではなく、この地上がふさわしく扱っていないからだ。神様に愛されたものとして、自信をもっていいのです。それは私が何かできるかによっているのではありません。神様がそう言ってくださっている。ただ、それだけでいいのです。そして、いずれふさわしく扱ってくださる方が来られる。それを信じて、内なる自信持って歩みたいと思います。
ふさわしく扱われていない人々の世界に関与する
自分たちがふさわしく扱われていないというだけでは、ただの自己中心、ただの傲慢に思えるかもしれません。しかし、本来クリスチャンはこの「神の子としてふさわしく扱われていない」ということを自分たちだけに当てはめようとはしません。
たとえイエス様を信じていなくても、その人が神様に造られた存在であることに変わりはない。その神に造られた人間がぞんさいに扱われている、苦しめられている、そういう人たちを見ると、そのままにしておけません。
だからこそ、この世界に関わります。「あなたは本来そのように扱われるべき存在ではない」そのことを信じてそのように関わります。そのような関わりを、先人のクリスチャンたちがしてきたからこそ、今の世界があります。病の中にある人、見捨てられたように見える子どもたちの中に神の子を見出した人ちたちが福祉をはじめました。
まだまだこの世界はふさわしく扱わない世界かもしれません。しかし、そこで諦めません。神の子にふさわしく全ての人が扱われ、本来のあるべき存在に回復するように祈り、関わっていきます。