こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。暑くなりましたね。いきなりの連日30度越えは体に応えますね。心と体が守られますように。
毎週木曜日は「ヘブル書からのショートメッセージ」をまとめています。教会で毎週水曜日と木曜日の集会でヘブル書を続けて読んでいて、そのエッセンスをお伝えできればと思っています。
今週はヘブル12:1〜3を読みました。特に1節に注目します。
ヘブル人への手紙12章
1,こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2,信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
3,あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
イエス様に喜ばれる身軽に走り続ける人生とは
私たちの信仰の生涯が競争にたとえられています。イメージされているのはマラソンのようなものでしょう。信仰は決して短距離走ではありません。長い年月かけて続いていくマラソンのようなものです。
長い距離走るランナーはとてもスマートです。着る服を最軽量にするのはもちろんのこと、自分の体の筋肉もスマートです。脂肪がほとんどついていないのは当然として、筋肉さえも必要以上に大きく発達していません。いかに身軽であるかが問われているように思います。だからこそ、ヘブル書は「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」と語っているのでしょう。身軽になって信仰の生涯を走りなさいと。
では、私たちの「重荷やまつわりつく罪」とは何でしょうか。注意したいのは、ヘブル書はほとんど具体的な「あの罪、この罪あるでしょ!」とは言っていないということです。ヘブル書で書かれている罪とは、イエス様を捨てて元の生活に戻ってしまうことです。元出てきたユダヤ教からの「戻っておいで、こっちの方がローマ公認で楽だよー、そっちは非公認で苦しいでしょー」という誘惑でした。認められていない地で信仰生活を送ることが重荷であり、イエス様を捨てたくなる誘惑がまつわりついていたのです。
そして、神様に喜ばれる信仰については次のように書かれていました。
ヘブル人への手紙11章
6,信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
神様に喜ばれる信仰とはまとめると、
・神様がおられることを信じる
・神様は(新天新地にて)報いを与えてくださる方であること信じる
この二つしか言われていません。実にシンプルです。シンプルな信仰を持っていることが神様に喜ばれるのです。
すると、「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てた姿」が見えてくるようです。シンプルにイエス様を信じるということです。難しい神学上のことをたくさん知っていることではありません。たくさんの奉仕をしていることでもありません。ましてや、「罪断ち」のようにして自分に鞭打って歩むことでもありません。シンプルにイエス様を信じて生きることです。
だから次のように語られているのです。
2,信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
イエス様を見て歩む人生です。自分でも他人でもなく、ただイエス様を見て走っていく人生です。
イエス様は目には見えません。それでも確かに私たちと共にいてくださること、そしてイエス様の十字架によって私はすでに救われていること、さらに死の先に永遠のいのちが待っていること、それらを目には見えなくてもシンプルに信じて生きる歩みです。
かつて、ある先生が次のような名言を語っていました。
人を見れば失望
自分を見れば絶望
イエス様を見れば希望
まさにこれが信仰の秘訣だと思わされます。難しくイエス様を見るのではなく、ただ幼児のようにイエス様を見つめて、先に走ってくださったイエス様の後を追っていきます。そこに希望があります。