ヘブル人への手紙13章
12,ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13,ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
14,私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
15,ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
16,善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
血を流す必要のあるいけにえ礼拝は、イエス様がただ一度流された血潮によって終わりました。今、私たちが献げるいけにえは、主をほめたたえる賛美のいけにえ、持ち物を人に分け与えるという善を行ういけにえだけとなったのです。
ここには、教会の集まりがどのようなものであるかが端的に語られています。私たちは神様を賛美するために集まります。これは神様と私たちという「縦の交わり」です。そして、互いに持っているものを分かち合うために集まります。これはイエス様が与えてくださった神の家族の「横の交わり」です。
それはちょうど十字架の姿です。十字架は縦に上から下に伸びています。それはイエス様によって、神と人との交わりが回復した姿です。また十字架はイエス様の手が左右に伸びているように、人と人との交わりが回復した姿でもあります。神と人も、人と人もかつては断絶していました。しかし、その断絶に主イエスが入り込んでくださり、空いていた溝を埋めてくださいました。だから回復されたものたちの集う教会は上に向かって主を賛美し、互いに対して与え合うところです。
信仰は決して個人で完結するものではありません。神様との交わりは必ず外へ溢れ出ます。悩み苦しむ兄弟を放っておけません。また自分の悩み苦しみも兄弟姉妹が支えてくれます。そこにイエス様によって贖われたものたちの、愛の交わりがあります。
私たちが献げるいけにえはこのような愛によるいけにえです。