ヘブル人への手紙13章

22,兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。

23,私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。

24,すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

25,恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。

ヘブル書は手紙の形を取っていますが手紙の形をとった説教のようです。一番手紙らしいのがこの最後の部分になっています。テモテの釈放について、イタリヤから来た人たちのことなどが書かれていて、手紙らしい感じになっています。

ここもただ事実の伝達以上に何かしらのメッセージを感じます。特に「兄弟テモテの釈放」には、何かヘブル書の読者に向けた意味を感じずにはいられません。というのも、ヘブル書の読者とテモテは重なるからです。

 

憶病になりパウロを恥じていたテモテ

テモテへの手紙 第二1章

6,それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

7,神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

8,ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

テモテはパウロによって呼ばれてパウロと共に宣教に携わってきた指導者の一人です。母や祖母も信仰に入っていて、模範的な信仰者だったと思われます。

けれど、「テモテへの手紙第二」を読むと、テモテがナーバスになっていた様子が見えてきます。パウロの言葉からはテモテが憶病になり、パウロが逮捕されていることを恥じていたように思えます。

何かペテロと重なるものがあります。ペテロもまたイエス様が逮捕された時に「そんな男知らない!」と臆病風に吹かれて、イエス様との関係を否定しました。テモテもまたペテロのようになっていたのでしょう。

 

その「兄弟テモテが釈放された」ということは…

だからこそ、ここでさりげなく「兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします」という言葉には、感慨深いものがあります。かつて、臆病風に吹かれていたテモテが今度はパウロと同じく、逮捕されるものとなった。そして、逮捕で終わらず、釈放された。神様がテモテを助けて下さったことを覚えます。

ヘブル人への手紙の読者も臆病風に吹かれているところがありました。迫害が続く中で、初めの頃の熱心さはなくなり、「一緒に集まることをやめて」(ヘブル10:25)しまう人たちが出てきていました。ユダヤ教に戻ってしまうものたちも現れ、教会は停滞、もしくは後退しているように感じていました。

教会丸ごとテモテのようだったのです。だからこそ、テモテの釈放は彼らを勇気づけるものとなったのではないでしょうか。

パウロは語っています。

テモテへの手紙 第二1章

8,ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

福音のために私と苦しみを共にしてほしいと。ヘブル書もまたイエス様が私たちのために苦しんでくださったことを語ってきました。そして、苦しみは苦しみで終わらず、回復がある。イエス様が十字架の後によみがえられたように、主に従うものたちもよみがえる。引き上げられる時がある。

テモテはそのことを示してくれているようです。テモテも変わった、だからあなたも変われる。

テモテへの手紙 第二1章

6,それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

7,神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

 

私たちのうちにも主の力と愛と慎みの霊が注がれています。主とともに苦しみ、主とともに引き上げられる。私たちもまた憶病なままで終わるものではない。主はテモテを変えられたように、私たちにも苦難に立ち向かう新しい力を与えてくださいます