皆さんこんにちは😇お元気ですか? 牧師の妻です。
あちこちで、紫陽花が花開いていますね。青や紫の美しい色合いに癒されますが、白い紫陽花なんていうのもなかなか素敵ですね。これはアナベルという種類の紫陽花だそうです。
先々週まで、毎週月曜日は、「聖書が語る救いとは?」というような内容を私のほうでお送りしてきたのですが、今日は、「祈り」についてのお話ができたらと思っています。
◯「祈った」ことは、ありますか?
突然ですが、皆さんは、「祈った」ことはありますか?
日本にはあちこちに神社やお寺がありますし、ここ清瀬は教会も非常に多いです。
日本人であれば、初詣とか、合格祈願! とか、多くの方がされたことがあるのではないでしょうか。
そうでなくとも、思わず「神様!」と祈りたくなるような場面て、誰もが通ることがあるのではないでしょうか……。
私の生まれた家は無宗教でしたが、私は幼い頃、いるともわからない中で、「神に祈って」いたことがありました。
母はよく絵本を読んでくれましたが、外国の子供が出てくる絵本の中に、よく、寝る前にお祈りをするシーンが出てくるのです。「パパをお守りください、ママをお守りください。それからかいじゅうも、お守りください……」笑。これは、『かいじゅうがおふろにいるよ』という、キャスリン・スティーブンスという方の絵本のなかの忘れられない一節です。
私はそれを真似て、幼いある時から、「神」に向かって祈るようになったのです。
◯きかれなかった祈り
私の母は私が5歳の時に癌がわかり、その頃から入退院や抗がん剤の治療を繰り返していました。
「神様、ママの病気を治して下さい」
私のその幼い祈りは切実でした。
しかし、私の小学校6年間の間も続いた闘病もかいなく、私が中学に上がってまもなく母は亡くなりました。
がん専門病院の、緩和ケア病棟。
もはや意識を失いつつある母を前に、私は長年繰り返してきた祈りを捧げ続けました。
「神様、どうかお母さんを助けて下さい。お母さんを生かしてくださるなら、私は一生独身でも構いません!!」
なぜそう祈ったのかはわかりませんが、その時私はそう祈ったのです。
中学一年で、異性にも真剣に興味を持ち始める時期でした。私は自分なりに、その時自分の一番大切なものを、差し出したつもりだったのかもしれません。
しかし、母は亡くなりました。深夜2時。呼吸がまばらになっていた母がもはや息をしなくなった時、私は病棟に響くような大声で泣きました。
今思えば、本当に迷惑な患者家族です……泣
そして私は、その時から、祈らなくなりました。
意識的にではありませんが、振り返れば、祈らなくなったのは、その時から、だったのです……
そこから、深い、長い、人生の夜が始まりました。
あんなに深い絆と交わりがあったはずなのに、母はいったいどこへ行ってしまったのか。
生前、母と私はよく語り合いました。「もし死んでしまってもずっと一緒にいてね。幽霊になって出てきてね」
しかし、それから2度と、母に会えることはありませんでしたし、死後の世界など、わかるはずもなく、
もう世界中探しても、一晩中泣いても2度と母に会えることはない……という事実は、私を奈落の底に突き落としました。
死とは一体何なのか。つらい抗がん剤の副作用に耐え、繰り返し食べたものを吐いてしまったり、髪が抜け落ちても、病気のことについてはほとんど弱音も吐かず最後まで希望も捨てず、たたかいつづけてくれていたのに、病は、死は、人のちからではどうすることもできない絶望の壁として、厳然と存在するのです。
同年代の友達に、その時の私の思いなどは理解されるはずもなく、
表面では明るく振る舞っていても、心の中はいつも土砂降りのようだったことを思い出します。
そして、いつからか、無意識的にも、神などいないと、当たり前に、思うようになっていました。
◯神との出会い
しかしそれから6年後、神様は私のところに来てくださいました。
大学一年の時、初めてクリスチャンの方達と知り合い、「福音」を聞いたのです。
この世界を「造られた」神がおられること
神の愛の中で、神と共に歩むように造られたはずの人間が、自ら神から離れ自分勝手な道を進んだこと……その結果、この世界に「罪」と「死」が入ったこと……
しかし、罪のもとにある人間が、再び神と共に歩むことができるようになるために、キリストが人間の罪の身代わりに十字架にかかって死なれたこと、そして三日目に、甦られたこと……
そのことを「信じ受け入れる」なら、私たちは「神の子ども」とされること
(詳しくは、ブログ最後のリンク「福音とは」①~④をご覧ください)
半信半疑でしたが、クリスチャンの方達のこれまで出会ったことのないような優しさ、温かさにふれ、
「もしこの聖書の神様が本当にいるならば知りたい」
「とても信じられないようなことだけど、もしそういうことがあるならば信じてみたい」
と思うようになりました。
母が死んで以来、私は「人はひとりなんだ」と割り切って生きてきていました。
どんなに仲の良い友達にも、自分を形作っている決定的な出来事である母の死に関することについて、その経験や思いを本当に理解してもらえることはないですし、それが当たり前、
環境に守られている人は人間の本当の孤独な現実に気付かないけれど、誰もがいつ思いがけない困難や病に直面するか分からず、人は皆究極的にはそれを一人で乗り越えていくしかない。
人の思いやりや優しさというものも、慰めにはなっても、人生の根本を揺るがすような問題を前には本質的な解決にはならならず、深い部分で人間は本当に孤独な存在なのだと、そのことを前提に生きてきました。
けれど、もうそのことに疲れた。
当時私はもう、一人では前に進めないと思うほどに、「本当の愛」というものに対する渇きが高まっていたのです。(当時は、両親がDVで離婚寸前な中での母親死亡そして障害を持った兄という複雑な家庭環境だけでなく、男女関係を通しても、自分自身そして「人間」の愛の不完全さや孤独を噛み締めていました)
もし本当に、この世界を造り、計画を持って、目的をもって私を造り、
真実な愛で「愛してくださっている」神がおられるなら、出会いたい
そのような抑えきれない願いの中、いるともしれない聖書の「神」に向かって祈ったのです。
祈るのは、母が亡くなって以来のことでした。
「神様、いるなら教えて下さい。私にわかるように、教えて下さい!!」
涙がとめどなく流れました。
そして、その祈りの中で驚くべきことが起こりました。
測り知れない、大きななにかに、包まれている。
自分の全てが、知られている、愛されている、この世界を、私を造られた神の目が、注がれている。
測り知れない大きな愛、としか言いようのないもの、考えられないような大きな安らぎを、
感じたのです。
しかし、信仰が「思い込み」であってはたまりません。私はその大きな安らぎと愛の感覚に戸惑いつつも、冷静にならなければと思い、「これはただの自分の”感覚”ではないか?」と「疑い」ました。
するとその不思議な感覚は静かにひいてゆきましたが、私はその時はっきりと気づいたのです。
ずっと、神なんていないと、そして、「宗教」は人間がよく生きるために作り出したものであって、「神に頼る」ようなことは自分には必要ないと思って生きてきたところが、
深いところで、自分が本当はどんなに「神」を求めていたか、ということに。
神学者であり物理学者数学者でもあるブレーズ・パスカルの言葉に
「人の心には神の形をした穴がある」
という言葉があります。
その穴は、天地創造の主であるただ一人の本当の神に出会った時、初めて埋められ満たされることができるのだというのです。
そして聖書には、「神は愛である」ということも書かれており、私が渇いてきた「本当の愛」というものも、この「神」のうちにこそあるのではないかと気付きました。
私たちは「誰かから与えてもらったことのないもの」を人に与えることはできません。
(だから、虐待は連鎖するのです)
しかし、もし
私たち一人一人が、この神のもとに立ち帰り、完全な「神の愛」を受けて歩むなら、私たちのその心の穴は本当の意味で埋められ満たされ、またその神から受けた愛で愛し合うことができる、
人は皆生まれてくる環境も経験もバラバラで理解し合うことはできなくても、この「神様」を通してなら信頼しあえる、そう思ったのです。
◯まったく新しい歩み
そのようななか私は、まだよくわからないこともありはしたものの、どうしてもこの神を知りたいという思いになり、キリストを信じるお祈り(後述)をしました。
私に福音を伝えてくれたクリスチャンの方々が、とても喜んでくださったのを覚えています。
そこから、私の人生は、まったく新しく、変えられてゆきました。
祈り聖書の言葉を読んでいくうちに
神は確かにおられ、私たちを真実な親のように守り導いてくださる方であること、
また、キリストの十字架の中に、
天地を創造され、人間を愛し、その歴史の中に介入されたこの「神」のはかりしれない愛が、ことごとく表されているのだということを、見出すようになったのです。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。( ローマ5:8 )
また、それまでの人生の一つ一つのことに、神様のご計画があり、確かな意味があることを知り、悲しみも、苦しみも、決して虚しいものではなくなりました。
また、神がその全てを共に通り、導いてくださるという大きな安心が与えられました。
何よりも、私の人生で最も深い悲しみである母の死こそが、
私に神なき世界や「死」の現実を教え、
私たちのためにすべての罪と病を負ってくださったキリストの愛(私は母の闘病と死の姿の中に、キリストが負われた十字架を目の当たりにする思いがしたのです)と
復活の希望(母は、私や兄のために生きようと必死で闘病を重ね、苦しんで、苦しんで、そして死んだけれど、キリストは私たちのために、苦しんで、苦しんで、そして死んだけれども甦られたのだと、それはなんと大きな希望であるかということ)を教えてくれたこと、
に気づかされたときには、身体中を激しい神の愛に貫かれる思いがしました。
そう、母の死は、私にとってだけでなく、主ご自身にとっても、耐えがたい痛みであったのです。
それでも、私が主に出会い本当の命に生きることのために、罪の結果である滅びから救われるために、
イエス様はそのことに、ご自身耐え難い痛み感じながらも、起こることをゆるされた出来事であったのだということを知りました。
そして、私の母の命が取られた時、イエス様は私と共に嘆き、涙を流され、
誰にも知られない深い孤独の中を歩んでいたと思っていた私の隣で、
出会うべき時を待ち、確かにともに寄り添っていてくださったことを知ったのです。
『孤独のとなり』孤独のとなりに神がいる、という三浦綾子さんの著作がありますが、まさにその通りです。
もちろん、母の死の悲しみがすべて消えるわけではありません。
それは、母の死後20年以上がたった今も、私に深い影響を残しています。
しかし、私は確かに、それに勝る慰めを得、本当の生きる意味、
そして決して裏切られることのない、神が与えてくださる希望
をいただくことができたのです。
「神を愛する人々,すなわち,神のご計画に従って召された人々のためには,神がすべてのことを働かせて益としてくださることを,私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)」
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント5:17)
以前は「キリスト教」などと聞くと「人間が作り出した宗教」のひとつだと思っていましたし、
クリスチャンとして歩みはじめる中でも、、やはり信仰とは感情的な思い込みなのではないか? という疑いが起こることもありましたが、
しかし色々と学ぶなかで、聖書は人間が考えてつくりだしたものではない、
聖書の記述は、この世界のつくりや歴史を注意深く見ていったときにも、(「信仰」ですからもちろん「飛躍」は必要ですが)客観的にも信頼に足るものであるということをおぼえ、
また当時、『科学者は神を信じられるか』(ジョン・ポーキングホーン著)という本に出会ったことも大きな助けとなりました。
また、祈った時や信仰生活のなかで、先程書きましたような色々な感覚(実感)を覚える方もいれば、あまりそういうのが感じられない、という方もおられると思いますが、そういった人間の「感情」や「感覚」とは別に
感情や感覚によらない、「聖書の御言葉」に信仰と人生の土台を置くという、揺らぐことのない歩みへと、導いていただきました。
キリストを信じてからの歩みについては、以下Twitterアカウントで少しずつお話ししていますので、よろしければご覧ください。
「疲れた者、重荷を負っている者は私のところに来なさい」 思いもかけないところに、救いはありました。まさか聖書の言葉が、キリストが、こんなにも私の人生を変えることになるとは✨主に出会う前の私は予想もしませんでした。聖書が語る救い、是非読んでみてください☺️⛪️✨https://t.co/gvERSoRNxb
— Chie (@Heavenlygrace77) May 25, 2021
◯キリストを受け入れる祈り
私たちは、
天地万物を創造されたただひとりの神がおられ、
神のひとり子イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死に、よみがえって下さったこと、
そしてその十字架の死が、「私自身のためであったこと」を信じ受け入れることによって、救われます。
しかし、そのようなことはあまりに人間の理解や理性を越えていて、自分自身の力では信じることが出来ません。
また、昨日のブログにありましたように、「疑いもあってもいい」のです。
ただ心を開き、神に祈る時に、キリストが私たちの心にきてくださり、私たちは神との関係を回復することができます。
もし、神を信じてみたい、今、自分も、神が備えてくださった救いを受け取りたいという方がいましたら、どうぞ以下のように祈ってみて下さい。キリストが、あなたの心に入ってくださり、あなたの人生を共に歩んでくださいます。
「神様。これまであなたから離れ、自分勝手な歩みをしてきたことを、お赦しください。
今、キリストが、私の罪の身代わりに、十字架にかかって死んでくださったことを信じます。
どうぞ私の人生の主(導き手、救い主)となり、私を導いてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
もしこのお祈りをされました方、または、信じてみたいけどよくわからない、という方がおられましたら、お近くのキリスト教会、もしくは私たちの教会まで、是非ご連絡ください。
私たちの教会は、礼拝、学びの会なども常にオンラインでもお繋ぎしておりますので、遠隔の方であっても大丈夫です。
ブログリンク「聖書が語る救い、福音とは」
①創造主なる神様
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②人間の罪
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③救いの道
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④信じることによって受け取る
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