「先生はね、小学校1年生の時に聖餐式でパンとぶどうジュースが食べたかったからバプテスマ受けたんだよ」

「えー!そんな理由でいいの?」

今週から小学校3年生の子ども二人へのバプテスマの学びを始めました。2年前にやはり小学校3年生の時にバプテスマを受けた子にも一緒に先輩として参加してもらいました。

私たちの教会ではここのところ、小学校3年生ころにバプテスマの学びをするように自然に導かれています。もちろん、強制はせず本人が学び、バプテスマを受けたいという思いが与えられれば導くという形です。

教会によっては「小学生なんて早すぎる!最低でも中学生になってからだ」というお考えのところもあるかと思いますが、私は小学生でもイエス様を信じる信仰を持つことができと思います。かくいう、私自身が小学校1年生の時に、バプテスマを受けたかからです。

冒頭の会話にあるように、私がバプテスマを受けたかったのは、聖餐式でパンとぶどうジュースをいただきたかったからです。そういうと、皆さん驚かれます。しかし、私はこれは結構根源的な求めではないかと思っています。

 

本当に欲しかったものは別にある

私がバプテスマを受ける前年に姉がバプテスマを受けました。クリスチャンの父母、姉と私の四人家族でしたので、私一人だけが、聖餐式に与れないということに、とても寂しさを覚えました。つまり、パンとぶどうジュースが欲しかったのではありません。そうではなく、自分も神の家族になりたかったのです。

それは自分の家族の中だけではなく、いつも一緒につながる教会の人たちと一緒に神の家族になりたかったのだと思うのです。ちなみに信仰の決心は連合の夏のキャンプで本田弘慈先生のメッセージの招きに応じて、講壇に出ていったそうです。幼いなりイエス様が大好きで、教会が大好きでした。その想いだけで十分だったと今では思っています。

マタイの福音書19章

13,そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

14,しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」

15,そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。

イエス様は幼い子どもをご自分の元に引き寄せられました。そして、手を置いてくださるお方です。私はこのイエス様の元に引き寄せていただき、神の家族にしていただいたのです。

 

子どもと一緒に学ぶということ、歩むということ

またイエス様は言われました。

マタイの福音書18章

1,そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

2,そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、

3,言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

4,だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

子どもが純粋無垢だとそんなことではありません。けれど、子供のうちに確かに大人にない柔らかさ、教えられやすさがあります。イエス様の言葉を語れば、それはスポンジに水が吸い込むように吸収されていきます。

子どもと学ぶと、私は自分の信仰をもう一度見つめ直すことができるように思います。子どもは素直に分からないことは「分からなーい」といい、わかったら「わかった!」と言ってくれます。その素直さこそイエス様が求められているものだと感じます。変な体面もなく、必定以上の謙遜さもありません。とてもフラットです。

子どもが洗礼の証をしてくれると、とてもストレートです。その姿に大人が教えられます。子どもが教会にいて、イエス様を信じていること、その存在だけでイエス様を物語っているように感じています。

もちろん、子どもが大人になる過程で様々な考えの変節を遂げることはあります。私自身、信仰で迷った時期もありました。それでも、幼い時に信じたイエス様は私が反発し迷っていた時にも、傍らにおられ守り支えていてくださいました。そして、時が来て神様と自分という関係を築くことができました。

「罪の自覚はあるのか」「三位一体についてわかっているのか」なんてことは、イエス様を信じる小さいものにつまずきを与えるような行為であると思っています。イエス様はそのようなつまずきを与えられるものを「わざわいだ」と言われました。幼い魂は幼いなりにイエス様を確かに信じています。それで十分だと私は思います。

教会がすべきことは子どものために祈ることです。その子がイエス様と生涯ともに歩めるよう、イエス様の喜ばれるものへと成長するように祈り支えます。飛び出してしまうことがあっても、黙って祈り、戻ってくるときに暖かく迎え入れる、そういう教会でありたいと願っています。

幼い時に幼いなりにでもイエス様に出会い、イエス様を信じ、暖かい神の家族の一員になるということを経験して欲しい。それが私の願いです。