こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで綴っていこうと思っていたのですが、昨日は教会の「ぶどうの木の会」の紹介をしてしまいました。完全に失念していました…。始めたばかりですのでご容赦ください…。これからは毎週水曜日に書いていくつもりです。今日は1日遅れで「日曜を思う歩み」を綴りたいと思います。
というわけで、木曜日ですが、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちの教会の来週の日曜日の礼拝で読まれる聖書の言葉を紹介させていただき、日曜日への期待をもって週の後半を過ごしていただけると幸いです。
さて、来週の日曜日の礼拝では、マタイ13:24〜43を読みます。毒麦のたとえのところですが、ここをこれから3回に分けてお話をしていきます。
マタイの福音書
13章
24,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25,ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26,麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
27,それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28,主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29,だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30,だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
麦を育てていたのに、毒麦が出てきました。ですからしもべたちは「どうして毒麦が出たのか?」と疑問を持ちます。主人は「敵がやったこと」と断定します。しもべたちが「では抜きましょうか?」と提案するけれど、「毒麦と一緒に麦も抜いてしまうかもしれないから、そのままにせよ。収穫の時により分けるから」と言っています。
たとえ話を読む大事なコツとして、「たとえを通して何を語ろうとしているのか」を考えることです。例え話だけ考えてしまいますと、特に現代のやり方と違うことがありますから、色々と突っ込みたくなります。しかし、そうではなく、たとえはあくまでたとえで何か語ろうとするための道具ですから、その語ろうとするところに注目します。
このたとえ話はイエス様の解き明かしがあります。
36,それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37,イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38,畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39,毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40,ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41,人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
42,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43,そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
これを読むと、たとえが何を言わんとしているか見えてきます。イエス様が種を蒔く方であるけれど、毒麦をまく悪魔もいる。同じ世界という畑に良い種と悪い種が蒔かれている。しかし、収穫と表現されるこの世界の終わりの時には、良い麦と悪い麦は分けられて、悪い麦は燃やされる。ということです。
このように聞くと、ある人は「私は毒麦なんじゃないか…」と不安になってしまいます。そして「私を良い麦に変えてください!」とお祈りしてしまうかもしれません。しかし、そういうところではないと私は思います。
というのも、このたとえにはもう一つの考えるべき要素があります。それが間に31節から35節が入っているということです。ここが間に入っていることの意味をよく捉えないと、毒麦の例え自体もとらえ損なってしまいまうのではないかと思います。
31,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
32,どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
33,イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
34,イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
35,それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
ここで語られる「からし種」と「パン種」のたとえはともに小さくて見えないような粒だけれど、大きく成長するということを表しています。イエス様は、天の御国をそのようなものと語っています。つまり、今は小さい粒だけれども、いずれは成長していく。爆発的な成長を遂げていくというのです。
この24節から43節までを一つのセットと考えると、見えてくるものがあります。それは、天の御国、つまり神様の治めてくださる神の国は、この世界で始まっている。けれど、それを妨げようと敵もいる。それは時に同じ教会の中にもいるかもしれない。けれど、誰が敵かと疑心暗鬼になって「抜く」(排除)のではなく、放っておきなさいという。最後に神様が相応しく、より分けてくださるのだからということです。
間にからし種とパン種の例えがあることで、その放置して良い理由がわかります。というのも、天の御国の広がりは爆発的であるからです。今は小さく見えても、確かに成長する。敵がいたとしても、敵の広がりなどものともしないくらいの力で前進するのだということです。
このことがわかると、とても安心できます。というのも、私たちは実際に「敵」のように感じる人たちがいます。「からし種」と「パン種」の例えがなければ、まるで敵が勝つか、神様が勝つか切迫しているような感じがするかもしれません。毒麦のような敵を放置したら、どんどん畑(教会)がダメになってしまうのではと。
けれど、イエス様が初めてくださった福音の広がりは、そのような勝つか負けるかというようなものではないのです。広がっていくのです。成長するのです。その過程で、色々と戦いはあるかもしれないけれど、大勢に影響を及ぼすようなものではありません。だから、放っておけと言われる。
確かに最前線で、色々と敵のような存在と向き合うのは大変です。けれど、神様の勝利は確実なものです。例え、私がそのところで退却しなければいけないようなことがあったとしても、大きな歴史の視野、世界大での視野で見た時には、小さなことに過ぎない。だから、神様を信頼します。小さな私の勝ち負けに神様が左右されることはない。それだけで、私たちは安心できます。
この神様への信頼をともにいただきながら日曜日に向かってともに歩んでまいりましょう!