こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。

私たちの教会では来週の日曜日は教会の目標の一つである「神と人とを愛する(交わり)」をテーマに御言葉から聞いていきます。ヨハネの手紙第一から聞いていきます。

ヨハネの手紙 第一1章

1,初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

2,--このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--

3,私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

4,私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

5,神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

6,もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

7,しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 

イエス様と一つになる「交わり」としての聖餐式

教会の交わりと聞くと、「仲良くおしゃべり」「一緒にお食事」という様子を思い浮かべるかもしれません。けれど、何よりも大事な交わりは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」です。

「神様との交わり」も賛美、祈り、聖書と色々とあります。その中でも、特に私が「交わり」を覚えるのは、聖餐式です。イエス様が私のために「からだ」を与えてくださったこと、「血」を流してくださったことを思い、そのイエス様と一つになることを覚えます。まさに一体となる交わりです。

私たちの教会では聖餐式はイエス様の十字架の死の「記念」だと理解し、パンとぶどう液は「象徴」だとする流れにあります。記念としての象徴とはいえ、思い起こすためのパンとぶどう液は大事だと考えています。信仰が頭の理解ではなく、体で実感できるからです。既に起こった事実を確かめ深めるものとなります。

パンとぶどう液をいただくとき、まさにイエス様と自分が一つであることを思い起こします。そして、そこで思い起こされるのは「あなたの罪は赦された」という過去の罪の赦し「いつまでもあなたと共にいる」という現在の臨在「また来てわたしの元に迎える」という未来への約束です。その過去、現在、未来に渡って貫かれている「わたしはあなたを愛している」というメッセージが響きます。

このことは、聖書を読むだけでももちろんわかりますし、そのことを感謝できます。けれど、実際に具体的なパンとぶどう液があることで、その交わりのリアルさを覚えます。

 

イエス様の光が私のうちに、教会のうちにある

今、イエス様と一つであること。その理解はさらに理解を深め、今一つとなったイエス様は光であることに気づかせてくれます。だから今、私のうちに光があるのです。その光は、人の目からめえないかもしれない、自分でもそう思えないかもしれない。けれど、確かに光がある。

教会の兄弟姉妹の交わりは、この光が互いのうちにあることに気づかせてくれます。一人一人のうちにイエス様の光がともっている。だから、兄弟姉妹の何気ない交わりを通しても、そこにイエス様のあたたかさを感じることができる。悲しみの時や怒りの時にも、一緒にいるあたたかさがある。ひとり泣かなくていい、ひとりで怒らなくていい。そこは暗闇ではなく、なお光がともっています。

自分を光らせる必要はありません。そうではなく、イエス様を光らせたい。誰かが「イエス様素晴らしい」と証すると、その喜びは広がります。光ります。

聖餐式の喜びが、光となり、互いを照らすものとなりますように。
教会の交わりが主イエスを指し示し、光あふれる時となりますように。