こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。
私たちの教会では来週の日曜日にマタイ15:21〜28のカナン人の女性とイエス様の対話のところが読まれます。
マタイの福音書15章
21,それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
22,すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
23,しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
24,しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
25,しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
26,すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
27,しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
28,そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
イエス様がなんでそんなに冷たいの?
ここのイエス様は冷たく感じないでしょうか。当時一般のユダヤ人が外国人を接すると汚れると思い避けてきたと言われますが、イエス様がこのように必死に訴える女性を無視し、「子犬」呼ばわりされるのは理解に苦し見ます。最後はこの女性の信仰が賞賛されるとはいえ、「なぜ?」と感じないでしょうか。
メシアの使命は何か
ここを理解する鍵となるのは、「使命への忠実さ」です。イエス様は、メシアの使命とは「神の選びの民であるイスラエルを悔い改めに導くこと」でした。異邦人を無視しているのではなく、神の選びの民であるイスラエルが「アブラハムの子孫を通して全世界を祝福する」(創12:3)という使命に立ち返れば、そのさきに全世界の救いへとつながります。だからこそ、まず選びの民への働きかけこそがイエス様の使命だったのです。
ここもメシアの治める家です!
このカナン人の女性の主張はイエス様の語ることに同意しつつも引き下がりません。確かに異邦人は選びの民ではないかもしれないが、「ここ(外国)もまた主人(メシア)の(治める)家」に違いないはず。太陽と雨が選びの民だけではなく、全ての人に注がれるように、恵みのおこぼれであればいただけるはずと訴えたのです。
イエス様が論争に負けて、変わられた!
イエス様はこの女性の主張に完全に同意されました。つまり、イエス様は女性との論争に負けたのです。そして、イエス様はこの女性の願いを聞き入れられました。
しかも、これは例外ではありませんでした。ここを契機として29節以降、異邦人宣教をされています!しかも、最後はユダヤ人にしたのと同じパンの奇跡までも異邦人に対してなされたのです。
ここには、弟子たちの時代に本格化される異邦人宣教の先取りがあります。イエス様は変わられたのです!
「言い伝え」に固執して変わらないパリサイ派、「使命」に忠実だが変わられた主イエス
ここには前回の1〜20節のパリサイ人たちの姿勢との対比があります。パリサイ派が「言い伝え」に固執したように、イエス様も当初は「使命」に固執されました。しかし、負けた時に違いが出ました。パリサイ派は論争に負けてなお、言い伝えに固執して腹を立てて去っていきました。けれど、イエス様は使命を捨てたわけではありませんが、この女性の言葉のうちに父なる神の御心を見て、変わられました。変わられた結果恵みが及んだ。
〜イエス様は人を救うために変わってくださった、そして教会も〜
イエス様はこのようにご自身の使命に固執することなく、変わってくださりました。それは人の救いのためでした。同じように、教会もこの人の救いのために変わっていきました。
使徒の働き11章
1,さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。
2,そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
3,「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。
4,そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。
…
17,こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
18,人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
初代教会もまた異邦人を当初は受け入れていませんでした。しかし、ペテロに示された神様の御心によって、教会は変わりました。人の救いのためなら変われるのが教会です。
私たちも言い伝えのような「教理」や「伝統」に固執してしまいやすいものたちです。しかし、イエス様や初代教会が変わられたように、神様が願われているのは救いのために変わる姿勢です。
負けたように見えても救いのために変わられたがのイエス様です。私たちも救いのためなら喜んで負けて変われるものでありたいと願わされます。