こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
春らしい気持ちのいい日が続きますね。写真はモッコウバラです。今回も教会の方が写真を提供してくださいました。明るい癒しの緑もいいですが、黄色のように元気の出てくるお花もいいですね。
水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。水曜日は1週間のちょうど真ん中です。少し疲れが出てくるあたりではないでしょうか。少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。
私たちの教会の来週の日曜日の礼拝で読まれる聖書の言葉を紹介させていただき、日曜日への期待をもって週の後半を過ごしていただけると幸いです。
さて、来週の日曜日の礼拝では、マタイ13:24〜43を読みます。ここの部分を3回に分けて読んでいますが、今回はその2回目で特に31〜35節のからし種とパン種のたとえのところを中心に見ていきます。
31,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
32,どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
33,イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
34,イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
35,それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
イエス様はマタイの福音書の13章で「天の御国」について、たとえ話で私たちに教えてくださっています。ここではその特徴として、「始まりは小さいけれど、爆発的な成長を遂げる」ということを語っています。
からし種はとても小さな種ですが、成長すると3mくらいになると言われています。すると、イエス様の言葉は「言い過ぎじゃない?」と思うかもしれませんが、イエス様が語りたいのはからし種の性質ではなく、天の御国の性質です。つまり、「え、そんなに成長するの?」と驚くほど広がっていくというのです。
パン種のたとえも同じです。パン種は酵母や微生物からできているもので、肉眼で識別できるようなものではありません。すでに膨らんでいたパン生地の小片を新しい粉に練り込んで膨らませるものです。けれど、その小片を混ぜ込むと、その生地は大きく膨らむわけです。ここでは3サトン(40ℓ)の中に入れるとあり、これくらいあると100人分くらいのパンが焼けるそうです。
天の御国は「それらくらい大きくなるよ」ということです。それだけ聞くと、右肩上がりのグラフのような感じがしますが、これもまた文脈が大事です。これは、毒麦のたとえとその解き明かしの間に挟まっています。ということは、「成長の過程には敵がいて妨害もある」ということが見えてきます。
しかも、興味深いのが、聖書の中で「成長する木」や「パン種」はあまり肯定的な表現ではないということです。「空の鳥が集う木」は、聖書の中でバビロン帝国を築いたネブカデネザル王について例えられています(ダニエル4:9〜12、20〜23)。空の鳥や野の獣が木の下に集まる様子は、周辺諸国を手に入れていく様子だと言われています。しかし、ネブカデネザル王は傲慢になり、切られてしまう。諸国が集う帝国は必ずしもポジティブなものではありません。パン種も純粋性を損なうものとして、取り除かねばならないと考えられていました(マタイ16:6〜12)。
このややネガティブな「成長する帝国のような木」と「嫌がられるパン種」をたとえとして用いて「天の御国はこのようなものだ」と語っているのです。ここは考えさせられます。
イエス様の語る「天の御国」は特にユダヤ人が願っていたようなユダヤ的純粋性をもったものではなく、もっとインターナショナルなものであり、ユダヤ人が忌み嫌うような広がりを見せていくということのように受け取れます。おそらく、ユダヤ人からするとイエス様の語る福音こそが毒麦に見えたのではないかと思います。
もともと、小さなからし種、見えるか見えないかのようなパン種のような存在が、嫌われるような成長を遂げていく。隔てを超えて広がりを続ける。これは、小さな群れである教会にとって励ましです。
教会は時に地域で異物のように思われているのではないかと思います。しかし、そのような異物があることで、膨らみ、拡大していく。それは、みんなに喜ばれるような右肩上がりのようなものではないし、内部的に見ても毒麦に悩むことがあるかもしれない。けれど、イエス様が蒔かれた「小さな群れ」の種は確かに実を結ぶ。イエス様が語られた「こうなるんだ」というものを信頼していきたいと願います。
そして、確かにあのわずかなものたちから始まったこの天の御国の教えは、広がりを見せました。それはかつての弟子たちや先人たちが優秀だったから、そうなったのではなりません。「こうなるんだ」とイエス様が言われたように、この福音にはそうプログラムされている。そのような力が備わっている。それをただ信じて歩めばいい。
私たちもからし種、パン種として蒔かれていきます。神様が蒔いてくださったから、それを信頼して歩みたいと思います。頑張って成長するようにと言われているのではなく、「こうなるんだ」と言われているのですから、ただそれを信じて、置かれたところで歩みたいと思います。