こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

今日はこどもの日ですね。そして、今日が連休最終日でもありますね。特に子どもたちが安心して、期待をもって学校生活に戻って行けるようにとお祈りしています。子どもたちには「大丈夫、自分は愛されていて味方はいっぱいいる」そう思って希望を持って歩んでほしいと願っています。

今日は毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。

私たちの教会の来週の日曜日の礼拝で読まれる聖書の言葉を紹介させていただき、日曜日への期待をもって週の後半を過ごしていただけると幸いです。

さて、来週の日曜日の礼拝では、マタイ13:36〜43を読みます。

36,それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

37,イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。

38,畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

39,毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

40,ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

41,人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、

42,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

43,そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

 

◯あれ?なんかずれてない?〜強調点の変化〜

ここは24節から30節の「毒麦のたとえ」の解説にあたるところです。そのたとえは次のようなものでした。

24,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

25,ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26,麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。

27,それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

28,主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

29,だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

30,だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』

このたとえのみを読むときにどこにポイントがあるかといえば、30節の「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」というところでしょう。つまり、毒麦のような紛らわしいものがいるけれど、一緒にちゃんとした麦まで抜いてしまうかもしれないから、放っておけということです。教会内には紛らわしいものが入り込んで混乱させられることがあるけれど、「誰が毒麦だ?」と疑心暗鬼になって、「毒麦狩り」をし始めるなよと言われている。最後に神様がちゃんと裁いてくれるから信頼して放っておけというのです。

しかし、この解き明かしは「放っておけ」というよりも、「毒麦の末路」の方にウェイトが置かれています。

40,ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

41,人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、

42,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

ここを読んでいると、「毒麦はいいけど敵はどうなるの?」という気がしてきます。敵はどうなるか言われていないけれど、毒麦がどうなるかに関心が集中している。これはどういうことでしょうか。

ここには、当時の教会の状況が反映されていると言われています。教会は偽教師や偽預言者、また分裂させるものによって、苦しんでいました。その中で、ここは「大丈夫、今あなたを悩ませている毒麦はちゃんと私がなんとかする」と言ってくれているように思うのです。

 

◯教会が生きている時に、戦いがある

教会は決して無風地帯ではありません。そこはむしろ神様の戦いの最前線でもあります。もちろん、教会には神様との出会いがあり、そこに集う同じ神の子とされたものたちの豊かな交わりがあります。そして、この世界では与えられなかった素晴らしい救いの恵みを覚えます。

しかし、だからこそそこに敵が毒麦を蒔くように、破壊しようとする力が働きます。それは、様々な人間関係のこじれなどによる問題から、病気や死別など突然の悲しみなどもあります。教会はこのような悩み、苦しみをうちに抱えていきます。

それはなぜでしょうか。生きているからです。教会が生きているから戦いがある。それは、人が生きているから病気になったり、苦しんだりするのと同じです。教会は生きているから、それを壊そうとする力が働く。混乱を起こし、無秩序に向かわせようとするものがある。

 

◯なんやかんやあっても大丈夫だから

けれど、大事なのはそこで私たちが必要以上にそのことに思いわずらわないことです。この例えの解き明かしは次の言葉で終わります。

43,そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

神様の最終的な解決がある。そして、主を信頼するものは太陽のように輝く。とても希望を持てる最後が約束されています。

チャップリンの名言に「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という言葉があります。私はこの言葉は大事な真理を含んでいると思います。

局所的には悲劇的なことが起こります。けれど、大局的に見れば希望がある。喜び溢れる喜劇になっています。

問題の渦中にいるときは、そのことでいっぱいになってしまいますが、御言葉は私たちをロングショットへと導きます。そして、頭を抱えている私たちに言ってくれているようです。「人生は色々あるよね。でもなんやかんやあっても大丈夫だよ。最後は神様の解決がある。大丈夫」と。

苦しんでいる人に安易に使うべきではないと思いますが、神様はそのように私たちの傍に座って、語りかけてくださっている。苦しんでいる本人がそのことに気づけるように、共に寄り添いたいと願っています。