こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。
私たちの教会では来週の日曜日にマタイの福音書13:44〜50を読みます。マタイの福音書をはじめから少しずつ分けて読む連続講解説教という形で読んでいます。
マタイの福音書13章
44,天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
45,また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
46,すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
47,また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
48,網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
49,この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
50,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
ここには「畑に隠された宝発見!&探していた良い真珠発見」というたとえのセットと「地引網」のたとえという2つのパートから成り立っています。特に今日は前半の「お宝発見&真珠発見」のところを読んで、思い巡らしたいと思います。
〜心臓がバクバクしそうなほどの出会い〜
イエス様は天の御国についてたくさんのたとえを語られていますが、ここでは「畑に隠された宝」と例えられています。
この時代には今のようながっちりとした銀行システムなどありませんでしたから、財産をどのように守るのかは重要な問題でした。しかも戦争などがあったりすると大変です。しばらくの間、戦地に赴かなければいけないことがあります。その間、家族は安全な場所に非難することもあったでしょう。すると、家が留守になる。身につけて持っていける宝石ならいいけれど、高価な壺や重たい金でできた食器などは持ち運べません。だから、自分の家の畑に隠すのです。そして、戦争が終わって戻ってきたらまた取り出そうと考える。
けれど、家の主人が戦地で死んでしまったら?また土地が敵に占領されてしまったら?畑は誰のものでもなくなってしまうのです。そして、それを「たまたま」発見して、知らんぷりをして土地を宝ごと買ってしまう。「いやー、宝が埋まっているなんて知らなかったなー」というようにして自分のものにしてしまうというお話です。
現代の感覚として、「それってどうよ?」と思うところはありますが、それはさておき、その宝を「たまたま」見つけた時の状況を想像してみてください。まさか、こんなところにお宝が眠っているなんて思いもしなかったわけです。その時の心拍数の上がり方、手足がガクガク震えてしまうほどの感覚が襲ってきたのではないでしょうか。
イエス様が私たちに与えてくださる天の御国はそのようなインパクトがあるというのです。
良い真珠を探し求めている商人にしても同じです。もっと良いものをと探してきた商人が最高のものを見つけたので全財産を売り払ってでも、それを手に入れようとする。
こちらのたとえのインパクトは、本末転倒しているところにあります。商人とは、手に入れて誰かに売りつける仕事です。しかし、その商人が全部の財産を売り払って自分のために買ってしまうのです。そんなことしたら、生活が成り立ちません。何しにいったのかというくらいのインパクトをもたらしているのです。
イエス様との出会いもそのような本末転倒を起こさせるようなインパクトがあるというのです。
〜「たまたま」出会った人も、「探し求めて」出会った人も、どっちも嬉しい〜
このたとえに共通するのは、発見した時の喜びです。天の御国を発見する、言い換えるならばイエス様と出会い、信じた喜びは、そのような大きなインパクトを持っているというのです。
しかし、出会い方はここにあるように一様ではありません。畑で「たまたま」宝を発見したように、イエス様のことを知ろうとしたわけでもないのに、何かしらのきっかけがあって「たまたま」出会って、大喜びする人がいます。
弟子たちがそうでした。ペテロやヨハネたちは、ガリラヤで漁師をしているときに「たまたま」イエス様に出会ったのでした。彼らはイエス様を探していたわけではありません。むしろ、向こうから声をかけてくださった。彼らはそれでも、そのイエス様に出会えた喜びで溢れました。
また、ある人はずっと真理を追い求めて、色々な宗教や哲学を学んで、それでも満足できなかったけれど、ついに聖書を読み、そこでイエス様に出会って喜ぶ人もいます。
聖書の中では、イエス様の誕生の時にやってきた東方の博士たちがそう言えるでしょう。彼らは遠い異国から探し求めてやってきました。偉大な王が生まれるしるしを見つけましたが、やってきた先はイスラエルの片田舎でした。それでも、確かに博士たちはそこで「宝」に出会えたことを見つけ喜び、宝を献げるものとなりました。
大事なのは、天の御国はどちらにも同じ価値があるということです。「たまたま」の人が劣っているわけでもないし、「探し求めて」いた人が優れているわけでもありません。天の御国の価値は変わりません。
〜その価値に気づけない時があっても、諦めないで〜
けれど、この価値に気づけない人もたくさんいます。同じ畑を歩いていても、何も見出さない人がいます。本当に良い真珠があると聞いても、探しに行こうとしない人もいます。「これは宝だ!」「これは良い真珠だ!」と聞いても、さっぱり価値がわからない人もいます。
私はクリスチャンホームに生まれて、ずっと聖書を読み、教えられて育ちました。だから、あまりにも自然なものとなり、福音が宝だとか真珠だとか感じることがあまりなかったように思います。
ですが、高校生と大学生の時に転機があり、なんと素晴らしいものをいただいているのかと改めて気付かされました。そして、今では間違いなく、私の宝です。私の周りの人たちにもこの宝を受け取ってほしいと願っています。
これを読んでいる方の中には、すでに「イエス様は私の宝!」という人もおられることと思いますが、「本当に宝なのかな?」と思っている人もいるかと思います。
私に言えるのは、「それは間違いなく宝だよ!だから絶対に捨てないで!」ということです。そして、そう私だけではなく、2000年の間数多の人がそう信じて、宝として受け取ってきました。だから、その声を信じてほしいと思います。
そして、宝は磨けば光ります。つまり、このイエス様との交わりをぜひ磨いてほしい。聖書を読み、教会の中で交わりに加わり、磨いてみほしい。そうすれば、必ずやその宝は光り輝きます。そして、高価な真珠を見つけた商人のように、本末転倒するような、人生がひっくり返るようなものがあります。
一人でも多くの人に、この宝を受け取ってほしい、そのように切に願います。