こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。

私たちの教会では毎月第1聖日は、今年度新しくした教会の3つの実践目標(交わり、宣教、教育)について御言葉から語っています。今月は2番目の宣教について、マタイ28:16〜20の大宣教命令から聞いていきます。

マタイの福音書28章

16,しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

17,そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

18,イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

19,それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20,また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

宣教は「あなた」ではなく「あなたがた」に命じられている

宣教と聞くと、「怖い」とか「拒否されるんじゃないか」と思い、「私にはできない…」と思ってしまうかもしれません。かくいう私がずっとそうでした。今でも、宣教に対して失敗や拒否されることを恐る気持ちはあります。「牧師だから無敵!」というわけではありません。

けれど、大事なのはこのイエス様の大宣教命令が「あなた」ではなく、「あなたがた」に命じられた言葉だということです。もちろん、時に「私」という個人に対して神様から「行け!」という呼び声があるかもしれません。けれど、基本的な宣教のあり方は「あなたがた」つまり、教会という共同体に与えられているものです。

ある時は、直接誰かに語りかけるように感じる時があるかもしれません。しかし、ある時は、教会で祈ることやサポートする側に回るように導かれることがあります。どちらが偉いということはなく、大事なのは教会という「私たち」の働きだと信じて、一緒に関わっていくということです。

 

宣教の中でこそ、「共にいる」イエス様を体験する

この大宣教命令と呼ばれるところは、マタイの福音書の最後の部分です。そして、その命令の最後にあるのは、「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」という言葉で締め括られています。

クリスチャンは「イエス様が共にいてくださる」ということを信じています。ですからこの聖句を大事にしていることと思います。そして、覚えていただきたいのは、この聖句はこの大宣教命令を締め括る形で置かれているということです。

つまり、「イエス様が共にいてくださる」と信じることは、まさにこの宣教においてであるということです。もちろん、日常生活の中でも、私たちはイエス様が共にいてくださることを信じます。けれど、もっとイエス様を身近に感じたい、その臨在に触れたいと願うのなら、この宣教に一緒に踏み出してみませんか?

 

宣教とは、愛されたものが今度は愛する側に回ること

では、宣教とはなんでしょうか。直接人にイエス様のことを伝えることももちろんそうですが、「神の国の福音に生きる」と言えると思います。もっと平たく言えば、「イエス様を信じて、イエス様に従って生きる」と言えると思います。

イエス様が私の身代わりになって死んでくださり、今私は罪赦されている。そして、私を「神の子」にしてくださり、聖霊によって今も共にいてくださる。そればかりか、同じ「神の子」たちが集う神の家族である教会を与えてくださった。そのことを喜び、そのことに生きる。

そのように神様の愛のうち、そして神の家族の愛のうちに生きる時に、自ずとこの愛の外にいる人に目が向かいます。そこには、イエス様が愛し、命をかけて救いたいと願っている人たちがいる。だから、教会は宣教をします。そして、その教会の思いの中で、一人一人が応答していきます。

今回、信仰の目標事項を「交わり、宣教、教育」という3つにしました。そして、この順番も大事だと思っています。つまり、まず「交わり」です。この「交わり」は神様との交わり、そして人との交わりです。そこで十分に神様に愛されていること、教会の兄弟姉妹から愛されていることを覚え、そこから宣教に向かってほしいと願っています。

愛されたから愛する側に回ることができます。十分に愛を受け、そこからイエス様の愛に生かされているものとして、その愛が周りの人に溢れていくようにと祈らされます。そして、そのようにして宣教を共に加わるときに、イエス様が共にいてくださることをより体験していくことができると信じています。