こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。

私たちの教会では来週新たに結婚する二人を祝福する時を持ちます。そのため、来週の日曜日はヨハネ2:1〜11の「カナの婚礼」を読みます。

ヨハネの福音書2章

1,それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。

2,イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

3,ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

4,すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

5,母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

6,さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

7,イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

8,イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

9,宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、--しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた--彼は、花婿を呼んで、

10,言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

11,イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

「これ、何か信仰と関係ある?」と思ってしまう奇跡

私はどうもひねくれていて、以前はこの「カナの婚礼」がどうにも好きになれませんでした。というのも、イエス様が結婚式のぶどう酒がなくなったから、水をぶどう酒に変えてくれてめでたしめでたし…って「何か信仰と関係あるの?」と思ってしまっていたのです。なんかイエス様がマジシャンみたいな便利屋みたいなどうにも違和感を覚えていました。そればかりか、水がぶどう酒に変わるというところに疑問を感じ、素直に読めませんでした。

しかし、よくヨハネの福音書を学び、その意味するところやメタファーを理解するうちに、ここにはとてつもない泉がある思いがします。この出来事の起こった「それから3日目」が意味するのが1章から続く日付を見ると第7日目だったり、石の水瓶が7にひとつ欠ける6つだったり、カナは1章に登場するナタナエルの故郷だったり…、実にたくさんの読み解くべき事柄があります。まさに「水がぶどう酒に変わる」ような思いで、この「カナの婚礼」を聴いています。

 

「これ、何か信仰と関係ある?」という場にイエス様がいてくださる

このように読んでいると、面白いところなのですが、もっと根本的なことがあります。「これ、何か信仰と関係ある?」と私が感じてしまうような世俗の喜びの場所に、イエス様がいてくださるということです。

私たちはイエス様を教会の中だけに見ていないでしょうか。家庭の中でもディボーションの時や、何か信仰を必要とするような具体的な困難な時にしかイエス様を見ようとしていないのではないでしょうか。まとめると、「真面目な時」にしかイエス様がいないかのように思ってしまう。

結婚式はとても世俗的な喜びの場所です。その中でも披露宴はみんなが集まって「おめでとー」と言って飲み食いする場所です。結婚式は神聖な場所でイエス様がいてくれそうだけど、披露宴はただの宴会だからいないんじゃないか…。結構そう思っていないでしょうか。

だからこそ、このとても世俗的な喜びの場所にイエス様がいてくださるところに大事なメッセージを感じます。私たちがただ嬉しい、ただ楽しい、そこにイエス様がいてくださる。そして、そのただ楽しいだけのイベントで困ったことがあった時にも、イエス様がいてくださり、助けてくださる。

「これ、何か信仰と関係ある?」と考えてしまう私の考え方がとても偏狭だったのです。イエス様はいつも共にいてくださるのだから、喜びの場、楽しい場についても祈って向き合いたい。そこで起こる失敗や危険についても、イエス様が助けを与えてくださる。結婚の場だけではなく、勉強の場、スポーツの場、ゲームの場、それぞれのところにイエス様がいてくださる。危機の時には助けを求めることができる。

むしろ、そこにイエス様の姿を見たいのです。教会の中だけではなく、恋愛中の二人のうちにも、部活中の子どもたちの中にも、会社で仕事中の人たちのうちにも、そこにイエス様がいてくださる。そこで喜ぶ時にイエス様と一緒に喜ぶ。ピンチはイエス様と一緒に乗り越える。

新たに結婚の歩みを始める二人が、家庭のうちにイエス様を見出し、共に喜び、共に苦難を超えられますようお祈りしています。