こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。
私たちの教会では来週の日曜日はマタイ13:51〜58を読みます。特に今日は前半の51〜52のところを見ていきます。
マタイの福音書13章
51,あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。
52,そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
取り出す日のために蓄える
13章のここまでで「天の御国について」のたとえがたくさん語られてきました。4つの土地での種まき、良い麦と毒麦、からし種とパン種、畑に隠された宝と良い真珠、そして地引網。一連のたとえから天の御国について弟子たちは立体的に教えられてきました。
これらの教えを弟子たちは「わかった」と答えます。本当の理解に程遠かったことは後に明らかになるのですが、聞いた直後の彼らは「わかった」と思っています。
弟子の答えは浅はかのように思えるかもしれません。イエス様も彼らが十分に理解しているわけではないことをご存知です。それでもイエス様は弟子たちの答えをそのまま受け止め、弟子たちのことを「宝のたくさん入った蔵を持っている家の主人」に例えられます。天の御国についてイエス様から学んだものたちは、旧約の古い宝も、イエス様の語られた新しい福音の宝も両方とも取り出すことができるというのです。
まだその「新しい宝」の真価は理解していないかもしれません。けれど、確かに彼らはその教えを自分の内側に取り込んだのです。後の日に福音の真価が聖霊によって理解されてから、まさに彼らは「取り出す」ように福音を語り始めます。また旧約からイエス様を指し示し始めます。
子どもたちに聖書のお話をして「分かった?」と聞くと、「はーい!」と答えると思います。子どもたちがどこまで聖書の物語、そこからのイエス様のメッセージを受け取っているかは分かりません。当然ですが大人とは違います。しかし、それでも確かに子どもたちは蓄えています。いつか聖霊が働かれる時、それは取り出されるます。
イエス様は弟子たちに「本当はお前たちまだ十分分かっていないけどな!」などと言われず、弟子たちの「分かった」をそのまま受け入れてくださる。同じように、私たちも子どもたちの「分かった」をそのまま受けとめていいのだと思います。
それは大人になっても同じかもしれません。「せっかく先生のお話を聞いても、その時は分かったつもりでも、右から左に抜けていくようで…」と言われる方がおられます。それでも、お話をしていると、そのかたの中に御言葉が息づいているのを感じます。具体的に「この箇所」という聖書の取り出し方ではないかもしれないけれど、御言葉が生きているから、それが行動に現れているように思います。
だからこそ、取り込んでおけばいいのです。聖霊によって取り出す日が来ることを信じて。大事なことは、「これは宝だ!」ということです。