こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。

私たちの教会では来週の日曜日は教会の目標の一つである「神を知る(教育)」をテーマに御言葉から聞いていきます。

 

知識や情報はあればいいというものではない

現代では、いかに多くの情報をいかに早く知っているかということが重要だと言われています。良い情報に早くアクセスできた人だけが、得をするという仕組みになっています。そして、反対に情報が少なく、不利益を被っている人たちを「情弱(情報弱者)」として蔑む社会です。

しかし、本当に知識は私たちを自由にするのでしょうか?聖書の語る言葉に耳を傾けたいと思います。

創世記3章

4,そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

5,あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

6,そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

7,このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 

アダムとエバは蛇から有益な情報を聞いたように思いました。それは、神様が食べてはならぬと命じられた木の実こそ、「あなたがたが神のようになる」ものだと語ったのです。

その木の実は「善悪を知る」ことをもたらします。つまり、何が良いことで何が悪いことであるかを、神様に聞き従うのではなく、自分で考え決めるということです。

それはとても自由に思えます。けれど、その木の実を食べた結果待っていたのは、自分たちが裸であり、無防備な存在であることでした。そして、互いの無防備さを恥ずかしいと感じるようになったのです。

これは現代でも起こっていることではないでしょうか。ある領域について、知り始めると自分の知らさな具合を知り、恥ずかしくなります。そして、それを覆おうとするけれど、とても隠しきれない。いつか、自分の裸(無知、無防備さ)が知られてしまうのではないかと恐れを抱いています。一見すると、堂々している人にとっても、そのような恐れがいつも付き纏っています。

 

イエス様を知れば知るほど、自由になり平安と喜びが溢れる

私たちが「神のようになる」ことは、どこまでも不安と恐れを抱かせるものにしてしまいます。それらの知識は決して私たちを真の自由にはしません。私たちが本当に自由と平安を得るには、どうしたらいいでしょうか。

 

ローマ人への手紙5章

5,この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

6,私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

7,正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

8,しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

9,ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

10,もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

11,そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 

私たちを本当に自由にする知識は、「イエス・キリストを通して表された神の愛」を知ることです。

蛇であるこの世界は「神様は、嫌なやつだ。お前は神から離れて自由になれ」と言ってきましたが、それこそフェイクニュースでした。そうではなく、イエス・キリストを通して明らかにされた真実の知識とは、「神様は私たちが罪人である私を救うために一人子を与えられた。それほど私もあなたも神に愛されている」というものでした。

人間が一番悪い時、一番罪深い時に、神は愛されたというのです。それが十字架でした。十字架は、どんな罪人のことも諦めない神の愛が明らかにされています。

そこからわかるのは、このイエスをキリスト、私の救い主として信じる時、もはや私たちは神様を恐る必要はないという真の知識です。そして、もう私が裸であること、つまり何か足りないと言って恐れながら生きなくいいということです。もう一度、裸で安心して生きていけるようになるのです。

私には知らないことがたくさんある。わからないことがたくさんある。けれど、ただひとつ、神様がイエス様によって私を愛してくださっていることだけ知っている。このことを知っていれば、必要なものは与えられると信頼することができます。

 

クリスチャンが追い求める知識は、この神の愛

だからこそ、クリスチャンが追い求めるのは、この神の愛について、もっと深く知ることです。

エペソ人への手紙3章

17,こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

18,すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

19,人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 

神様が愛であることを知るというのは、頭の知識で1回で分かるというものではありません。その頭で分かった知識が心の奥底に落ちて、いつも平安に満たされるように、聴き続けます。知るということは、深い体験からくるものです。

この愛が分かれば、わかるほど、私たちはこの愛を分かち合いたくなります。身近な人たちに、またこの愛を知らない人たちに。それこそ、教会の交わり、そして宣教です。