こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
毎週水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで書いています。週の半ばの水曜日に、少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちは日曜日に神様のもとで立ち止まり、休む時をもってスタートします。そして、また日曜日に向かって歩んでいくものたちです。ですから、少し立ち止まって次の日曜日を思い巡らして、歩んでみませんか。
私たちの教会では来週の礼拝においてマタイ14:22〜36が読まれます。有名なイエス様が水の上を歩かれる場面です。その中でもペテロとイエス様のやりとりのところを読んでみましょう。
マタイの福音書14章
27,しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
28,すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29,イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30,ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
31,そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
32,そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
33,そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
求められているのは「立派な信仰」ではない
イエス様が水の上を歩かれたのは他の福音書にでも出てきますが、マタイ版が他と違うのは、ここにペテロとイエス様のやりとりが入るところです。
ここは様々に受け取られているところではないかと思います。「ペテロは波を見て沈んだから、私たちも波を見ないで歩もう」と理解することもできます。しかし、今回改めて読んでいると、私には「ペテロ的蛮勇」は不信仰な結果しか招かないということを語ろうとしているのではないかと思わされています。
自分の信仰の立派さを示そうとして、無茶と思えるようななことをする人がたまにいます。あるところまでは、イエス様が歩かせて下さるように神様の不思議な力を体験できるかもしれません。水の上を歩くように周囲からも「おお!」と思われるような働きがあるかもしれません。
しかし、どんな「立派な信仰」も最後までそれだけで歩めはしないのです。いや、むしろそんな「立派な信仰」で歩いて行ってしまったら、イエス様の恵みを体験できなくなってしまう。
危機の時に手をつかんでくださるイエス様がおられる
ペテロの危機はある意味しなくていい危機でした。ペテロが勝手に「立派な信仰」のために歩み出して、結果沈みそうになった。ペテロが一人でワーワーやっているようです。しかし、その失敗し沈むペテロをもイエス様は手の伸ばしつかんでくださる。人間のしょうもない見栄からくる失敗も、イエス様は「自己責任」と見捨てたりはしない。引き上げてくださるのです。
大事なのは、どんな人もイエス様に引き上げていただかなくてはいけない存在だということです。私たちは誰も自分の「立派な信仰」だけで生きていかなくていい。イエス様が助けてくださるから、ただそのイエス様を信頼していればいいのです。
私たちは信仰のヒーローにならなくていい。「イエス様助けてください」という小さな信仰でいい。イエス様が憐れみ深い方であるから、それだけでいい。「ペテロ的蛮勇」のものをさえ見捨てないイエス様は、小さな信仰の者も決してみてたりはしません。