マタイの福音書15章
10,イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
11,口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
…
16,イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
17,口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
18,しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
19,悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
20,これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
イエス様は「口から出るものは心から出る」と語られました。そしてパリサイ人の口から出たものは、表面的には敬虔な言葉でした。「あなたの弟子はこんなことも守っていないのか。もっと努力が必要じゃないか」と。
しかし、その内側にあるのは蔑みです。ガリラヤの田舎者たちより自分たちの方が上だという驕り高ぶりからくるものです。自分たちの方が遥かに律法と言い伝えに精通しているという人を見下す態度です。イエス様はそんな口先だけの敬虔さなど、神様は喜ばれないことを語ります。むしろ、その内側にある汚れに気づくように語ります。
では、イエス様の内側にあるものはなんでしょうか。それは憐れみでした。
マタイの福音書14章
14,イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。
「憐れみ」という言葉は「内蔵」が元になっている言葉です。まさにイエス様の内側から出るものが憐れみでした。そして、その内側から出たものは人々を癒すものとなって広がりました。
私たちの内側はどうでしょうか。私たちもまたパリサイ人と変わらない偽善性、表面上の敬虔さなどがあるのではないでしょうか。だからこそ、イエス様が必要なのです。
イエス様はご自分のからだと血とを与えてくださいました。これだけが私たちの内側を聖めてくださいます。だから日々、私たちは憐れみを求めます。イエス様の内側にある憐れみの心を自分にも与えてくださいと祈ります。イエス様は与えてくださいます。
イエス様の与えてくださったものはあたたかい。その頂いたあたたかさで人をあたたかくするものでありたいと願います。