こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年の4月から教会のブログを開始しました。聖書のお話や教会での活動や、牧師が読んでいる本などの紹介をしています。

私たちの教会では今年度より「神を知る」ために読書会を開くことにしました。4月からNTライトという神学者の書いた「神とパンデミック」という本を教会の方と一緒に読んでいきます。短い本ですが、関連する本も取り上げながら、多面的に理解できるようになれればと願っています。

これまでの内容は以下のリンクをご覧ください。
ブログNo.20 NTライト「神とパンデミック」イントロ〜2021年4月読書会〜
ブログNo.34 「その考え方って本当に『聖書的』?」NTライト「神とパンデミック」1〜2021年5月読書会に向けて〜
ブログNo.41 NTライト「神とパンデミック」2旧約聖書から読み取る〜2021年5月読書会②〜
ブログNo.73 NTライト「神とパンデミック」3イエスと福音書が教えていること〜2021年6月読書会〜

今回はこの日曜日に行った読書会の「4 新約聖書から読み取る」のところを取り上げました。今回のところも、ライトの論理をそのまま追うのは神学的前提がかなり必要なので、背景を少し補いながら、まとめたいと思います。

私なりにまずざっくりまとめると…

⭐️世界的危機に際して「取るべきではない行動」は…

・災害などの危機に際して「再臨のしるし!」「これは神の罰だ、悔い改めよ!」と不安や恐れを煽ること

⭐️ではそのような危機の際に「取るべき行動」は?

・アンティオキア教会のように、世界中の危機に際して「特別に危険にさらされているのは誰か」「私たちに何ができるか」「誰を送ろうか」と祈り、考え、行動する。

⭐️その行動の背後にある神学は?

・神様は人間を「神のかたち」に創造し、人間を通して地を治めようとされている。

・だから危機の際には神様は人間を通して行動を起こそうとされている。

・私たちは神様の手の中の道具となる。

 

それではもう少し詳しく見ていきましょう。

 

Ⅰ 「世界中に起きる大飢饉」(使徒11章)にどうアンティオキア教会は立ち向かったか

NTライトは今回のパンデミックのような世界的な危機の際に、教会が取った行動として、使徒の働き11章の預言者アガボによる世界中への飢饉の預言への対応をモデルとしています。

使徒の働き11章

27,そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。

28,その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。

29,そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。

30,彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

 

アンティオキア教会の弟子たちは世界中に大飢饉が起こるという預言を聞いた時に「神の裁きだ!」「これは主の戻ってこられるしるし!」とは言いませんでした。彼らがこの「世界中に起きる危機」の際に考えた3つのことは、

「特別に危険にさらされるのは誰か」

「私たちに何ができるのか」

「誰を送ろうか」

 

ということでした。そして、

アンティオキアー活発で裕福な教会

エルサレムー貧しく迫害を受けていた教会

ということに気づきました。またライトは指摘していませんが、アンティオキア教会から見れば、エルサレム教会は母教会に当たる教会であり、バルナバなど指導者も送られていましたから、これまで受けてきた恵みに応えたいという思いもあったでしょう。

ですから、アンティオキア教会は裕福だったのでエルサレムの貧しく迫害を受けている教会のために救援のものを送るために、バルナバとサウロを選んで託したのです。

ライトはこの出来事が、歴史上かつてない出来事だったと語ります。

「ある都市の多文化的な人々によって構成された集団(アンティオキア教会)が、500キロも離れた別の都市の単一文化的な人々で構成された集団(エルサレム教会)に、友愛の義務を感じた。」

そして、そのような全く異質なものたちを結び合わせるものがイエス様によってもたらされた神の国の福音だったのです。教会は「イエスを通して発足した神の王国は、被造物を本来あるべき姿に回復させる」という使命を真剣に受け止めていたのです。

つまり、神はご自身に忠実な人間を通してご自分の世界に働きかけたいと願っている。アンティオキアの教会はこれに気づいたのです!

 

Ⅱ 「神のかたち」に造られた人間を通して地を治めようとされる神

私たちはパンデミックなど危機が起こると、「神はなぜこのようなことを許されるのか?神は何もされないのか?」と問いたくなります。その問いへの答えは、

神は人間という稲妻を送っている。神はご自分の世界で、人間を通して行動しようとしている!

ということです。神の王国は、神が人々を通して働かれて、実現していくのです。自発的に行動し、本当の必要がどこにあるのかを見極め、それに応えていきます。それは時に何もできず、ただイエス様がラザロの墓の前で泣かれたように、私たちも友の墓の前でも、敵の墓の前でも泣くことだけかもしれませんが、それもまたイエス様がなされたことです。

祈りに満ち、謙遜で、神に忠実な人々こそが多くの人の問いかけに対する神の答えなのです。

大事なことは「なぜこんなことが起こるのか」に答えることではなく、「何をすべきなのか」に答えていくこと。神は神を愛するものとともに、彼らを通して働かれているのです。

 

Ⅲ では新約聖書は「悔い改め」について何を語っているのか

私たちの宣教のモデルは、パウロがアレオパゴスでした説教(使徒17章)にあるとライトは語ります。アレオパゴスでの説教は、イエスとイエスを遣わされた神についてだけを語り、その神への悔い改めを語りました。

古代宗教では災害などと結びつけて人々に「これらの災害は神々が怒ったからに違いない、いけにえが足りないのだ!」などと言っていましたが、パウロはアレオパゴスで当時の大災害などは引き合いに出すことはしませんでした!

パウロはイエスに関わる出来事というただ一つのしるしから、悔い改めへと招いたのです。最近起こった自然災害などの出来事ではなく、イエスご自身に関わる私たちの態度について悔い改めを語ったのです。

⭐️私たちが悔い改めを語るのは、飢饉や疫病のためではなく、ただイエスご自身のゆえです!

 

地を治めるものとして、被造物のうめきを共有する

ここからの論理の背景となっている神様と人間、そして被造物の関係についてライトの語っている背後にあるもの、それについて私の理解していることを加えながら書いていきたいと思います。

Ⅰ 被造物の管理を任せられた人間(創世記1:26、27、詩篇8篇、ヘブル2:5〜8)

①「神のかたち」(創世記1:26〜27)

創世記において、神様は人間を「神のかたち」に造られ、この地を治めるようにと命じられました。この「神のかたち」とは何かは色々と解釈の分かれているところですが、古代の帝国の支配が参考になると言われています。

戦争で領土を拡張していく中で、支配者は「王のかたち」である像を各地に立てていきました。それは、この地を治めているのがこの「かたち」の主である◯◯王であることを意識させるためです。

この考え方を「神のかたち」の背後に見るのならば、人間こそ創造者である神様の存在を指し示し、その神様のなさろうとしていることを地上で行うものだと理解できます。

しかし、アダムとエバはその管理責任を放棄して、失ってしまった。そして、地は呪われてしまいました(創世記3:16〜17)。

 

②「栄光と誉れの冠」を被らされた人間(詩篇8篇、ヘブル2:5〜8)

けれども、神様はそのまま呪いで終わることなく、当初の願い通りに人間がこの地を「神のかたち」として治めることを願っておられ、「被造物回復のために一つの民(アブラハム)を選」ばれました。そこから呪いを祝福に変える回復が始まったのです。神は人間を贖う(買い戻す、取り戻す)ことで回復を始められました。

詩篇8篇は次のようにうたいます。

詩篇8篇

4,人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

5,あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

6,あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。

 

神様は、贖われた人間によって、再び被造物を支配(治め)ようとされているのです。それこそ贖われた人間の使命です。

人間は「救われ」て終わりではありません。そこから使命が始まるのです。旧約時代はその贖いはおぼろげでしたが、私たちに先立ってイエス様が死の苦しみのゆえに「栄光と誉れの冠」を受けられました。そして、このイエス様に信じ連なるものたちによる被造物の管理が始まっています。しかし、まだ人間にすべてのものが従えられてはありません。ですからヘブル書は次のように語ります。

ヘブル人への手紙2章

5,神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

6,むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

7,あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、

8,万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

9,ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

ヘブル書は贖われた人間が「後の世」を治めると言われているが、まだ「従わせられていない」と語ります。これはすなわち「後の世」というのは、すでに始まっていることを意味します。イエス様によって始まった神の国は、いずれ完成する。そこまでの現在は過渡期であると言えます。

過渡期である故に今の世界で起こるのが「うめき」です。

 

Ⅱ 地を治めるものとして被造物のうめきを共有する(ローマ8章)

今の時代において私たちが「地を治める」と言っても、それはこの地上の支配者のようではなく主イエスが治められたやり方で治めるのです。それはヨハネ11章の「ラザロの死と復活」のような治め方です。復活することを知ってはいても、今の世で死んでしまった友のために泣く(うめく)あり方でした。

飢饉や疫病など、世界が大きく動揺しているとき、イエスの弟子である私たちが願われているのはそのあり方です。世界が痛んでいるその場所で祈る民となるよう召されています。イエスに従うものたちも聖霊とともにうめくのです。

「何をどう祈ったらいいかすらわからない」という時に、そのままうめくように祈る。世界が痛んでいるその場所で祈る、それもことばにならない祈りを祈る。その時にこそ、私たちは共にうめく聖霊を覚えます。

世界的危機というのは、世界が「調子がおかしくなっている」状態です。その状況で確信を持って語るのは危険です。歪んだ状態に言葉を合わせ、結果的に歪んだ言葉を語ることになってしまいます。

 

Ⅲ ローマ8:28の「神を愛するもののためには、全てのことがともに働いて益となる」(ローマ8:28)の解釈

ライトはローマ8:28をどう解釈するかもパンデミックに大きく関わってくると考えています。

ローマ人への手紙8章

28,神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

この言葉は慰めですが、ストア派的に「気にするな。全てのことはともに働いて良くなる」と言ってしまいやすいところです。しかし、「すべてのこと」が主語ではなく、「神」が主語である可能性が高いと言います。

私訳「神は神を愛するものたちのために、すべてのことをともに働かせて益とする。

パウロは「今、働いている神」について語っており、神はこの世界に対して行いたいと願っていることを民とともに働いて行う、と語っているのではないかというのです。神が単独で働くのではなく、神は人を通して働かれる。

ローマ8:28はストア派的な諦めの言葉ではなく、神が自分たちのうちに働いておられることを知って懸命に働くことへの招きなのです。イエス様がこの痛む世界に降りてきてくださり共に苦しんでくださったように、神は私たちを召して苦しみに満ちた世界を救う神ご自身の計画に参与させようとしているのでs。

神の民は単なる見学者ではなく、受益者でもなく、能動的に関わる参加者なのです。

 

〜この章を学んでみて…〜

長くて、また論の展開がさっと読んだだけだとわかりにくいところでした。しかし、一つ一つ読み解いていくと、見えてくることがたくさんありました。その見えてきたことは、「人はその人の神学によって行動する」ということです。

様々なパンデミックへの反応があります。その反応は、その人が神様をどうとらえているかだけではなく、人をどうとらえているかに関わってきます。

人間が、ただ「神様に救われねばならない罪人」という理解だと、信じた人はこの地上においてミッションが終わります。あとの生活は「天国までの待合所」になります。罪人がゼロになるまで宣教を続けるだけです。

しかし、そもそも人間が「神のかたち」に創造されたということは、信じて回復した後にも私たちのミッションは続きます。いや、そこから始まります。この地を神様と共に神様の願われる治める働きをしていきます。

そのように人間を理解するのならば、私たちが危機に際してすべきことは、違って見えてきます。アンティオキア教会がした反応こそ、これからも私たちがしていきたい応答の姿だと改めて思わされました。