こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
22回目はNTライト「神とパンデミック」です。私たちの教会ではこの本を今年の4月から少しずつ読み進めてきました。
2021年4月20日(火)ブログNo.20 NTライト「神とパンデミック」イントロ〜2021年4月読書会〜
2021年5月4日(火・祝)ブログNo.34 「その考え方って本当に『聖書的』?」NTライト「神とパンデミック」1〜2021年5月読書会に向けて〜
2021年5月11日(火)ブログNo.41 NTライト「神とパンデミック」2旧約聖書から読み取る〜2021年5月読書会②〜
2021年6月22日(火)ブログNo.73 NTライト「神とパンデミック」3イエスと福音書が教えていること〜2021年6月読書会〜
2021年7月19日(月)ブログNo.95 NTライト「神とパンデミックー4新約聖書から読み取る」〜2021年7月読書会〜
短い本ですが、内容としてはぎゅっと詰まっている本でした(最後の5のところはまとめきれずでした…)。そして、今の時期にまさに必要な本であったと思います。今回は少し私なりにこの本から教えられたことをまとめてみたいと思います。
1 その場しのぎの反応をしない!
パンデミックや大地震などが起こったときに、信仰者は「神がいるのになぜ?」と嘆きたくなります。それはただの疑問というよりも大事な嘆きを含んだものです。けれど、私たちはすぐに聖書のどこかを引いて「答え」を与えてしまおうとする誘惑に駆られます。しかし、結果としてそれはうまくいかないことが多いです。
特に「悪い答え」として、「これは神様が人間に怒っているのだ!」(異教的)と語ったり、「これも全部神様の計画」(ストア派)、「この世は全部ただの偶然」(エピクロス派)、「この世界はどうせ陰で滅びる、実体である天国を思え」(プラトン主義)などと言ってしまったりします。そのどれも聖書的なようでいて、実は異教的なものやギリシャ哲学的な考え方だったりしているというのです。聖書は本当にそのようなことを答えとして与えているのかというと、そうではないというのです。
ライトは十分に「嘆く」ことを語ります。その「なぜこんなことが?」という嘆きの問いの先に、「何ですか?私たちにできることは?」と移っていくことが期待されています。そして、それこそ初期のクリスチャンの姿だったというのです。使徒11章では、「世界中に大飢饉が起こる」という預言が与えられた際に、アンティオキア教会は、「神の裁きだ!」などと言わずに、飢饉の時に苦しみにあうであろうエルサレムの教会への支援を決めて行ったのでした。
2 その場しのぎをしないための骨太の聖書理解
①聖書を貫く大きな二つのレベルのストーリー
私たちが危機に陥ったときに慌てず、その場しのぎの言葉に飛びつかないためにはどうしたら良いでしょうか。ライトは、そのためにも聖書全体がどのようなストーリーによって貫かれているのかを理解することが大切だと考えています。そして、ライトは聖書全体を貫く二つのストーリーを次のようにまとめます。
(1)「被造物回復のために一つの民を選ぶ」ストーリー。
(2)良き被造物と神の手による良き創造を初めから破壊しようとした暗闇の力についてのストーリー。
特に(1)を理解するためには、人間とはどのような存在かを理解する必要があります。創世記で神様はこの世界を治める(管理させる)ために人間を「神のかたち」に創造されたとあります。しかし、この世界にはその良き創造を最初から壊そうとする力が働いている(2)ことも語ります。そのようにして、アダムとエバは蛇に騙され、被造物は呪われてしまいました。
神様は、この呪われた被造世界を回復するために一つの民を新たに選ばれました。それがアブラハムから始まるイスラエル民族です。そして、このイスラエル民族の先にイエス・キリストが生まれました。これが世界を呪いから祝福に変えようとする神の物語(1)です。けれど、イスラエル民族を神に従わせないようにする暗闇の力が働き続け、イエス様にも何度も神から引き離そうとするサタンの働きがありました(2)。
この大きな二つのストーリーラインを理解していると、コロナ禍もまた二つの線から考えることができます。疫病ということ自体は、良き創造を破壊する力であると理解できます。そして、私たちはこの地上で痛む世界と共にあり、世界の回復のために関与していくことが見えてきます。聖書を一本線で理解しようとすると、見えて来なくなりますが、二本線で理解するとより見えてくるものがあります。
②究極の「しるし」はイエス様の死と復活
このライトの本の中では「しるし」もまた鍵になります。というのも、コロナ禍を「世の終わりのしるし」のように考え主張する人たちがいるからです。そういった言動は人を不安に陥れるようなものです。ライトは聖書が語る「しるし」とは何かを語るところに力点を置いているように思います。そして、それはイエスの死と復活だと力強く語ります。
イエス様もまた福音書の中で、疫病や地震、戦争の中に「しるし」を見るのではないと語っています。「終わりが来たのではありません」(マタイ24:6)と。そして「人の子は思いがけない時に来る」(同44)と語られます。何か天変地異があって、それがしるしで終わりが来るのではなく、盗人のように突然やってくるのです。だから、疫病や地震、戦争の時ほど「今ではない」と考えることもできます。
では、私っちの見るべきしるしは何か。それはイエス様です。イエス様こそしるしであり、その中でもライトは十字架と復活にこそしるしがあると語ります。
「イエスについて起こった十字架と復活という出来事こそが、今や悔い改めへの招きであり、神がこの世界において何をしているかを理解する手がかりです。」(P35)
しかし、その十字架理解は単純明快ではありません。なぜなら、主イエスは「十字架」という「僕として仕える」あり方で統治されたというからです。十字架は王として統治する姿とは程遠いものです。主イエスが王として統治するあり方は十字架で罪を贖い、仕える姿でした。
それと同時に十字架には、良き創造を破壊しようとする暗闇の力が現れています。人間を愛から引き離し、疑いと敵意と憎しみから同胞を死に追いやるまでに人を駆り立てる暗闇の力があそこにはあります。無罪の人間を死に追いやるという点で十字架は決して良いものではありません。けれど、その暗闇の極みの十字架が同時に被造物回復の決定的な場所となったのです。
十字架には暗闇の力と神の愛というパラドクスがありますが、また聖書の二つのストーリが交差する場所ともなっています。そして、最大の暗闇の力だった死は復活によって、最大の敵ではなくなりました。聖書の二つのストーリーは十字架で交錯し、一つの新しい民の創出、暗闇の力からの救いの道という一つのストーリーとなりました。
この十字架には「神の救いの計画」と「人間の罪の邪悪さ」というパラドクスは、下手に合理的に説明する必要はありません。合理的に説明しようとすると、「悪を許容する神」になってしまう。そして、コロナ禍もこのパラドクスから理解する時に、私たちは歩むべき道が見えてきます。
私たちにはこの「しるし」がある。だから、このしるしである主イエスを見続けるのです。
3 被造物のうめきを共有しつつ、今の時を生きる
①共に苦しみに嘆き、うめくところから始める
この大きな聖書理解を知った上で、私たちはコロナ禍の現実に向き合います。その時の基本姿勢はどうあるべきか。ライトはヨハネの福音書のラザロの復活の主イエスの姿こそモデルであると考えます。
ラザロは病気になって死にました。マルタとマリヤは泣き悲しみ、イエス様に「あなたがいてくださったら死ななかったのに…」と縋り付きます。そして、イエス様もまた友のために涙を流されました。そして、ラザロをよみがえらせました。
ライトはコロナ禍でのクリスチャンの歩みの鍵として「ラザロの墓の前での涙」を見ています。ラザロはいずれよみがえります。それでも主イエスは涙を流されました。家族は「イエス様がいてくれたら」と嘆きます。それがコロナ禍の状況だというのです。共に嘆き、涙する。主イエスの復活を信じます。しかし、それでも悲しみの場で涙を流すのです。共に苦しみ、涙を流すところには、連帯と愛があります。
今、この世界は「調子のおかしくなった状態」です。そのような世界に確信を持って語ることは危険です。歪んだ状態で語ろうとする言葉は、結果的に歪んだ言葉になってしまいます。どこがどう調子が悪くなっているか分からない状況では語る言葉に通常の時よりも慎重になるべきです。
これはパンデミックに限らず、この現代世界全般についても言えるかと思います。この現代世界では、多くの人が「調子のおかしくなった」状態にあり苦しんでいます。家庭内暴力、いじめ、過酷労働など「おかしくなった世界」で、人々は苦しんでいます。そのような歪んだ状況に置かれている人に福音を伝える時には、その歪みの故の苦しみをまず受け止めるところから始めたいと思わされます。すぐに語る言葉を探そうとせず、苦しみ、うめきに共にあるところから始まります。
そして、その人の苦しみを本当に受けとめ、理解してくださるのはイエス様だけだと自覚したいと思います。「分かった」つもりにならない。むしろ「分かってあげられない」ということを謙虚に受け入れつつ、それでもなおその苦しみの場にとどまるのです。その時に、私ではなく、言いようのないうめきを受けとめてくださる聖霊の働きが始まると信じます。
②教会のメンバーのなす創造的で癒しをもたらし、回復を与える働きは、神の王国のしるしを表す
では、嘆き悲しむだけかと言えばそうではありません。「何ができますか、私に」という問いに向かいます。具体的には、医療関係者と協力して、十分に円熟した人道的アプローチを確実に行うようにしなければならないとライトは語ります。自分たちだけの自己中心的な行動ではなく、良く協力しながら円熟したあり方を心がたいと思います。というのも、キリスト教世界は十分にこの危機の際に対するアプローチに歴史があるからです。昨日、今日始まったものではありません。2000年の歴史があります。それらをよく理解しながら現代のアプローチを心がけたいと思います。イエス様のようにことばだけではなく、行動とシンボルを通して新しい創造を語るものでありたいのです。
時に「教会は霊のことだけやればいい」と言われます。福祉のことは社会がやると。しかし、信仰者は霊的のみならず全領域において社会に参与するものです。私たちはそのために「神のかたち」に造られているのですから。教会には様々な領域で活動する兄弟姉妹が集っています。彼らの置かれている領域で主に仕えていく働きを励ましていくのが教会のまずすることです。
「教会が」何をするかも大事だけれど、「それぞれが」信仰者として生きる現実を励まし支えていく、それは教会の大事な働きです。その先に教会として何かできることがあるかもしれません。それは祈りのうちに示されることを信じつつ、まず置かれている現実に誠実に一人ひとりが生きられるよう祈り、励ましていきたいと願わされます。
③e礼拝はあくまで「捕囚状態」と受けとめる
また、今の時の教会活動についてもライトは示唆を与えています。このコロナ禍はいわば「捕囚のような状態」だと考えます。それは本来の信仰生活が送れない状態だけれど、その状況での信仰生活を保ち続けるということです。だからe礼拝(インターネット、オンライン)もやむを得ないと言います。
しかし、今は「捕囚状態」であり、イレギュラーであることを忘れてはいけないと言います。つまり、「本来はこうではない」と自覚している必要があるのです。というのも、e礼拝に慣れすぎると、消費者中心主義的な信仰になってしまう危険性があるからです。お好みの説教者や賛美のある教会を探して気ままに教会を選ぶというあり方は、本来の「招かれて形作る共同体」としての教会とは相いれない形だからです。いずれまた共に集うのだと胸に刻みたいと思います。
かといって、感染状況を無視して会堂に集まることを絶対視するべきでもありません。本来の姿を心に持ちつつ、今の「捕囚状態」の時を祈りつつ過ごしたいと思います。
捕囚期間は、ユダヤ人にとって自分たちのアイデンティティーを再発見する時になったと言われています。聖書への回帰などが行われました。今の私たちも同じかもしれません。礼拝とは何か、信仰とは何か、もう一度見つめ直し、自らのアイデンティティーを問い直す時とさせていただきたいと思います。